ジェーン・バーキン 和訳 手切れ Je Suis Venu Te Dire Que Je M’En Vais ゲンズブール
誠実に愛し、愛されることを願う人は
どうぞこのシャンソンに大切に耳を傾けてください。
ヴェルレーヌの詩との関連などについても書いています。
それと、それぞれ現代的な解釈のカヴァーたちもどうぞ♪
基本のバーキンらがあってこそ成立しているところもあるような。
しかしカヴァーは貴重です。それでこそ生き残っていきます。
バーキンに関するYahooニュースを保存するため、一番下に
コピペしておきます。ご容赦ください。
コンプレックスを持った少女が美のアイコンとなり、ルッキズムの
領域をすら飛び越えた経緯がインタビューの形で残されています。
Jo Lemaire & Flouze ジョ・ルメール&フルズ
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ジェーン・バーキンの涙。何を思うのでしょう?
事実婚(12年間、ゲンズブールはプロポーズしたが
既に結婚に失敗しているバーキンが、ノン^^:)
の相手であった、別れた夫と言うべき
先に逝った元カレのつくったこの歌を歌うときに。
離婚で渡仏した傷心の20歳。映画「スローガン」
で共演し、複雑で傲慢な人という印象から
「突然、私はこの傲慢さが内気からくるものだと分かり、
彼の性格の複雑さを理解しました。それは愛くるしいものよ。
面白くて、魅力的で、思いやりがある」と語るまでになり
12年の情熱的で狂宴のような愛が始まりました。
確かロスチャイルドの血を引いていたと思います。
あんないい所のお嬢さんを とフランス社交界のマダムが
驚くようなつきあいでもあったのですが。
子どもたちの歌のプレゼントに目を真っ赤にし、
涙を浮かべるゲンズブール。タバコは強がりだったのね、
といった感動的な動画は7番目にあります。
また悪たれ感いっぱいに歌う動画もそれはそれでちょっと感動です。
コンサート(2枚組CD)の最後を飾ったのがこのシャンソン。
歌い終えてマイクを置いて立ち去るバーキンの姿。
あれだけ愛し合ったのに最後まで愛しきれなかった・・・。
この歌もやはり恋愛の不可能性の一側面を描いているのかもしれません。
彼がつくったこの歌を歌い終えてマイクを静かに置くとき
ジーン・バーキンの胸に去来するものは何だったのでしょう?
このシャンソンだけでも永遠の価値があるでしょう?
翻訳の下でいろいろと触れています。
では、拙訳です。
告げに来たわ 立ち去ることにしたって
あなたが泣こうと 何も変わりはしない
いみじくも、ヴェルレーヌが言ったように
「無慙(むざん)な風に吹かれた」のよ
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告げに来たわ 立ち去ることにしたって
昔の日々を思い出して あなたは泣くのね
あなたは打ちひしがれ 青ざめている
その時が打ち鳴らされたことに 永遠の別れを告げて
そうね まったく残念ね
立ち去ると告げているの
そうよ あなたを愛してる そうなの でも
告げに来たわ 立ち去ることにしたって
あなたがいつまですすり泣いていても 何も変わりはしない
いみじくも、ヴェルレーヌが言ったように
「無慙な風に吹かれた」のよ
幸せだった日々を思い出して あなたは泣くのね
あなたは泣きじゃくり うめく
時が打ち鳴らされた今のありさまに
そうね まったく残念ね
立ち去ると告げているの
あなた わたしに対してあんまりだったから
告げに来たわ 立ち去ることにしたって
あなたが泣こうと 何も変わりはしない
いみじくも、ヴェルレーヌが言ったように
「無慙な風に吹かれた」のよ
告げに来たわ 立ち去ることにしたって
昔の日々を思い出して あなたは泣くのね
あなたは打ちひしがれ 青ざめている
その時が打ち鳴らされたことに 永遠の別れを告げて
そうね まったく残念ね
立ち去ると告げているの
そうよ あなたを愛してる そうなの でも
告げに来たわ 立ち去ることにしたって
いつまですすり泣いていても 何も変わりはしない
いみじくも、ヴェルレーヌが言ったように
「無慙な風に吹かれた」のよ
幸せだった日々を思い出して あなたは泣くのね
あなたは泣きじゃくり うめく
時が打ち鳴らされた今のありさまに
そうね まったく残念ね
立ち去ると告げているの
あなた わたしに対してあんまりだったから
無断転載はご容赦ください。リンクはフリーです。
25の動画で紹介するウェディングソング隠れた名曲集はここから
舎人独言には
★エロスに変容するバラの寓意
★ノートルダム大聖堂の聖なる秘数
★オパキャマラドの風景
★映画「華麗なる賭け」チェスシーンのセクシーの秘密
★名盤「クリムゾン・キングの宮殿」の実在のモデル発見
★映画「男と女」サンバ・サラヴァの謎
といった解読シリーズがあります。
カジノ・ドゥ・パリで開かれたコンサートの
最後を飾ったのが、このパフォーマンスです。
山口百恵ではありませんが
マイクを置いて立ち去る演出はお金はかからないし、単純です。
でも、丁寧に、そうせずにはいられない彼女の想いが
こちらの胸にもヒシと迫ってきます。万感の・・・・。
演出を含めて、このシャンソンに何を感じるかで
あなたという人間がわかってしまうかもしれません。
フランス芸能界のスキャンダル発信源と言ったら、
筆頭に挙がるのが
セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンのカップルでした。
ハレンチな音楽、ハレンチなファッション。
奇抜に過ぎる言行。
芸能人仲間への人格攻撃も垂れ流して。
でも、今は昔のお話。
そんな2人だったのに、このシャンソンが
こんなにも身に染むことになってしまうとは・・・。
もともとのオリジナルは、夫だった、そのセルジュ・ゲーンズブールです。
邦題は「手切れ」。
なんと、まあ。
無頼でスキャンダラスで売っていく路線だから
こんな邦題なのかもしれませんが
ゲンズブールの本質の一部しか知ってもらう必要が無い
といった、売る側のゴウマンさが臭いません?
繊細なところがあるから、無頼になっちゃうのにな。
その繊細な部分をネグレクトだなんて。
正直に言うと、ゲンズブールで聴いた時は、聴き逃していました。
邦題も「手切れ」だなんて、変に構えているようで嫌だったし。
ともかく、バーキンで初めて心に届きました。
で、ゲーンズブールを聴きなおし・・・それなりに、納得しました。
別れて、他人になってからのほうが、誰にでもわかる
親しみやすい曲を提供している事実の背景は
なんとなくわかる気がします。ちょっと距離を置いたほうが、
むしろ長所を素直に見つめることができるのでしょう。
より生産的な関係になったわけです。
提供するゲンズブール、受け入れるジェー・バーキンと、
それぞれの心象を思うにつけ
男と女の在り方のひとつの参考になるのではないでしょうか?
ともかく、親密すぎるほどに親密に
他人とはいえない関係で
ある歳月をともに過ごしたこと。
何よりも大切なことは、一緒に過ごす時間。
その時間を、ずっと長く、できれば永遠に
重ねていくことだったのに・・・。
バーキンのほほにかかる涙は、そんな感慨のせいなのか、
などと想像してしまいます。
あえて、もっと踏み込めば、
見捨てるのは仕方ない選択だった
仕方がなかったけれど
それでも、捨てるべきではなかった
一緒にいるべきだったのに、という
今にして覚える一抹の後悔・・・
などと言うのは、男の甘い夢に過ぎないでしょうか?
どこまで俺を受け入れてくれるのか?
女を試して、試して、限界以上に試して
女が離れてから、やっぱりな、と変に納得する男もいて、
それは甘えなんだけど、ついやっちゃう、
よせばいいとわかっているのに、やらずにいられない。
離れてみれば、そんな甘えも、それを強いる淋しさもわかる。
自分が別れを決めたみたいな、こんな強がり、書いちゃって。
そんなことも、今なら、抱きしめてあげられる。
なぜ、最後までつきあってあげられなかったんだろう・・・
今なら、もう少しは・・・という後悔。
(しかし、こんな男、やっぱり、やってられないのも事実。
渦中にあったら、判断、違うもんね)
心を込めて歌うことは、歌に自らがさまざまな価値・意味を
肉付けしていく行為にほかなりません。
そこまで聴く者に感じさせてしまってこそ
この歌を歌いきるということなのでしょう。
シャンソンって、人生のドラマの縮図とも言われるけれど
確かに、そんなところがありますよネ。
とにかく、別れを告げる側の哀しみを、
さりげないけれど、しっかり伝えてくれて
聴きこむほどに良さが身にしみてくる名曲です。
(没後20年の2年前、シングルが再発売されたそうです。
とにかく、フランス人はこの歌、大好きなようですね。
話しているような、言葉による微妙なリズム感が、
とてもシャンソンらしい・・・)
あ、ところで、「無慙(むざん)な風に吹かれた」ですが
オリジナルのヴェルレーヌの「秋の歌」では
Et je m’en vais
Au vent mauvais
となっています。
この歌のタイトルは
Je suis venu te dire que je m’en vais
ですから、 Au vent mauvais だけでなく
ゲンズブールは je m’en vais も本歌取りしているかもしれません。
あの詩の中で、 je m’en vais は
あまりいい使われ方ではありませんから
立ち去る にしても、その後、お前にいいことはないだろう、なんて
実際は振られた形のゲンズブールが
無慙な願いをバーキンに仕掛けているかも・・・・?
「いみじくも」という訳し方は、
2013年10月4日現在
ネット上ではほかに、検索できませんでした。
ゲーンズブールのほうは
バーキンのすすり泣きが、なんとも・・・。
語るべき言葉なんて、あるのかな?
こんな時に。男は。
案に相異してゲンズブールは小心者ではなかったでしょうか?
そんな気がしてなりません。だから虚勢を張ってしまって・・・。
女性に対しても、俺のことを愛しているか?
と常に問い詰めずにはいられないといった・・・。
支持者に、本当に俺のことを評価しているのか?と
脅迫的に確認を迫った尾崎豊のように。
子供たちのオマージュに、目を赤くし
言葉を失い、涙さえ浮かべて。
これもゲンズブール。
むしろ素顔のゲンズブールかもしれない。
On est venu te dire qu’on t’aime bien
あなたを愛していると言いに来た
バーキンは、ゲンズブールの歌を伝え続けることに
意義を見出しているのかもしれません。
レオ・フェレの名曲「時の流れに」でも、
ゲンズブールのことと推測してしまうのですが
歌い進めるうちに涙がこぼれ
歌い終えると同時にガックリと首を垂れてしまって・・・。
(それを、演出に過ぎない、なんて言うのは
斜に構えすぎというものです)
世界的にはバッグで知られるわけですが
どうして、エルメスの社長が飛行機で隣り合わせたバーキンに
バッグを作って進呈したいと思ったのか、がポイントです。
有名ブランド関係者をそんな気持ちにさせる
セレブリティーとしてのジェーン・バーキンの価値って
何よりもまず、歌手であるところから発生していると思うのですが。
その点、女優だったグレース・ケりーと同じですね。
バッグより以前に、第一に
こんな素敵な歌も歌っているって、もっと知ってほしいな。
もちろん、日本人は
東日本大震災後の彼女の行動も記憶すべきです。
ケイティ・ペリーも敢えて来日してくれましたが。
多くの外国人アーティストが演奏活動をキャンセルしました。
ですが、ジェーン・バーキンとケイティ・ペリーは
日本を訪れてコンサートを開き
復興へ熱い支持・支援を表明しました。
レディ・ガガほどには知られていないとしても。
(で、日本は、ジェーン・バーキンの取り組みに感謝して
外務大臣表彰を贈っています。
化粧っ気のない、喪服の姿が、かえって美しくみえます)
ゲンズブールのこの悪たれっぷりったら^^
生きることがそのまま一流の芸になっちゃう。
この行動をもってしても、
彼女が過ごしたゲーンズブール的混乱は
少しは評価され直されるべきではないでしょうか?
彼女はいつも意識してか無意識のうちにか、ラディカルに物を見ていた。
ゲンズブールとの共通性は、彼女自身に由来するラディカルさにあった。
ヨーコ・オノとジョン・レノンと多分、同じように。
人間関係であれ、ファッションであれ、音楽であれ
おためごかしなど辞めて、行き着くまで行き着いた徹底の果てに
なにがあるかを、いつも、意識していた.
表面的なことにだまされず、徹底して
隠れているものを見つめろ、と
初めはゲンズブールに教えられたのかもしれないけれど。
そういうブレない見識というか、覚悟ある生き方が
放射能汚染の日本を怖れる世界の常識の大部分が、
実は必要以上の恐怖と怠惰でしかないと見抜かせたのでしょう。
常識の陰に隠れて、見識と勇気のなさに口をぬぐう人間ではない
と、自ら証明したのでしょう。
人間として、まぎれもなく一流であると
自らの行動で証明したと言えるのではないでしょうか?
歌手として活動するから、彼女の意思も人間性も
こうして確認できます。
バーキンというバッグを捧げられるに値する
尊敬されるべき人間ですね。
自分も同じようでありたいと思わせる勇気ある女性です。
ちなみに。
ヴェルレーヌの
「無慙な風に吹かれた」を含む「秋の歌」をコピペしておきます。
上田敏の詩集「海潮音」に収められています。
ほかにも素晴らしい訳がありますので、当たってみるといいかも。
この詩って、第二次大戦中、ラジオで2度読み上げられ、2度目は
連合国によるフランス上陸作戦(ノルマンディー上陸)が2日後に行われると
フランス国内のレジスタンス組織に知らせるために使われたんだって。
で小説「ナンシーの戦い」で読む通り、ドイツの戦車がノルマンディーへと
向かわないよう、フランス国内の橋を爆破したりしてレジスタンスを展開しました。
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
2023年7月29日の Yahooニュース
ジェーン・バーキンが抱えた美の葛藤。アイコンと言われるまでの遍歴を語る
7/29(土) 20:40配信
ELLE DIGITAL
7月16日(現地時間)に76歳でこの世を去るまで、何世代も女性たちのアイコン
として君臨したジェーン・バーキン。しかし、世間の印象とは裏腹に、
ジェーンと美の関係は決して簡単なものではなかったようだ。
生前、彼女は美への葛藤と変遷の歴史をUK版「エル」に語っている。
“私は枕元にアイペンシルを置いて寝ていた”
「私はいつも、自分はどこか未完成であるという感情を持っていました。
幼い頃は、自分を内気な人間だと思っていたし、可愛いと思われるなんて
想像もしませんでした」
「この感情は恐らく、カラスのような漆黒の髪を持つ美しい母と、
ラファエル前派の絵画のような妹の影に、私が隠れていたからでしょう」
「母が、私よりも妹を可愛いと思っていたのは、2人の顔が似ていたからだと
いつも思っていました。そんなことはないでしょうが、当時はそう思ったのです。
私の兄ですら、私より美しかった。頭にスカーフを巻けば母にそっくりでした」
「一方、私は父親に似ていました。全寮制の学校では胸がないことを理由に、
“半分少年、半分少女”とからかわれました。どういうわけか、他の人が考える
普通のレベルにまで至っていなかったのです」
「母が私たちを学校に迎えに来ると、映画スターのような格好の母に注目が
集まります。彼女はモーヴカラーのトライアンフのオープンカーを運転し
パーマをかけた髪に鮮やかなリップ、そしてダークな眼鏡という出立ちでした」
「少し遅刻してチャペルのドアを開けるときも勢いがよくて、皆グラマラスな
彼女の方を眺めたものでした。一方私は、隅っこで小さくなっていました。
その頃私が欲していたのは、褐色の靴を履いた普通の姿の母親でした」
「成長するにつれ、垢抜けることができると悟った私は、キングズ・ロードの
ウールワースで化粧品を買い始めました。父親が私を見れば悲鳴を上げ、
クレオパトラか娼婦に見えると言われるのはわかっていました。だから
2階に上がってメイクアップの半分を落としました。そうして始めて、
私は外出することを許されたのです」
「年上の男性から注目されるようになったのは驚きでした。チェルシーでは、
向かいに住んでいた男性のことをよく寝室から眺めていたものです。夏になると
木々の葉が茂り、よく見えませんでした。しかし、私が16歳くらいのとき、
近所で彼を見かけて話をするようになりました。彼は40歳くらいで、
彼ほど素敵な人は他にいないように思えました」
「それはとてもエキサイティングで、誰かが私に気付いてくれた最初の経験でした。
間もなくして、父は自宅のバルコニーから私たちを見ることができるという理由で、
彼の家に行かせてくれました。ただ、ドアの向こうでキスをしていることには
気づいていませんでした」
「18歳で作曲家のジョン・バリーと結婚するまで、私はメイクアップの仮面
の裏に隠れていました。当時の私は60年代の“イングリッシュ プリティー
ルック”にフィットしていたのでしょう」
「私のアイコンであったジーン・シュリンプトンほどの美しさはなかったけれど、
当時の流行も手伝って、とても短いミニスカートに前髪のあるブロンドのヘアスタイルでした」
「ジョンと結婚してからずっと、枕の下にアイペンシルを置いて寝ていました。
彼が夜中に目を覚ましても、私がちっぽけな子ぶたのような目をしていると
思われたくなかったからです」
「こんな風に自信を喪失していた時期もあったけれど、それはとてもばかげたこと
でした。私はほとんどの時間を、流行の絵画のようになりたいと思って過ごしていたのです」
“人々は私の仕事について語るようになりました。それは私が美しく見えるか
どうかでなく、女優や歌手としての評価でした”
「ジョンと別れフランスに行き、映画『スローガン』のオーディションで
セルジュ・ゲンスブールに出会った時、ようやく私は自分のルックに
安心感を得ました。自分自身に魅力があることに気がついたのです」
「出会って間もなく、セルジュは私に“君こそが美の理想だ”と言ってくれました。
ジョンとの結婚生活の間、望まれても欲されてもいないと感じていた私にとって、
それは素晴らしい驚きでした。これまで誰も、胸がないことに魅力を感じて
くれた人はいませんでした」
「人々は胸はそれほど重要ではない、あるいは何とかなると言って
くれました。しかし、実際に私のように胸がなくてもヒップが大きい、
半分少年のように見える少女と一緒にいてくれる人はいませんでした」
「セルジュが私をルーブル美術館に連れて行き、中世の画家たちが描いた絵
を見せて、その意味を教えてくれたのを覚えています。彼は美術学校に通って
いた頃、いつも私のような少女を描いていたと言っていました」
「私達はすぐ、娘ケイトとその後に生まれたシャルロットとともに、フランスでは
おなじみの顔になりました。土曜日の夜にはフランスのテレビに出演し、
輝くスパンコールドレスに身を包んだり、ピアノに寝そべって歌を歌いました」
「パリで私たちはどこに行っても歓迎されました。ナイトクラブ『マキシム』
に行って、大きなかごバッグをハンドバッグ代わりに持ち歩いていたときですら、
彼らは私たちをお店に入れてくれました」
「その時代は、何でも着たいものを着ていました。セルジュは『イヴ・サンローラン』
が大好きで、イヴは外出のためのドレスを仕立ててくれました」
「ブティックの小さな金箔の椅子に腰かけ、セルジュが衣装を仕立てるのを手伝って
くれました。特に覚えているのは、タフタのレイヤーが重なったもので、おそらく
ブランドがロシアをテーマにしたフェーズにいる頃でした」
「それらはとても美しく、このドレスをまとうときの高揚感がたまらなく好きでした。
ディナーに出かける時はドレスを着て、その後、朝の5時までナイトクラブにいました」
「番組や映画の撮影がなければ、私たちは楽しさを求めて遊びに出かけました。
そして、私たちは突然“カップル オブ ザ イヤー”に選ばれました。雑誌の表紙を
飾ったり、ギイ・ブルダンのような著名な写真家が撮影を行ったことで、私は
自身がその人たちのお気に入りになったことを悟りました」
「しかし、その時ですら私は自分が特別にきれいだとは決して思いませんでした。
ただ、セルジュが思う“美”には適合していると感じていました。初めて自分らしく
いられるようになったのは28歳の頃でした」
「セルジュは、『ジュテーム・モワ・ノン・プリュ』の曲から生まれた映画で
私をディレクションしました。彼は私のメイクを全て落とし、ショートカットに
しました。その時初めて、アイメイクもリップも、グロスも何もつけない状態でも、
本当に安心していられると感じました。エフォートレスで最高の気分を感じることができました」
「時が経つにつれ、私はますます力を抜くようになりました。セルジュと別れた後、
私は同じジーンズ、シャツ、トレーナーで過ごしました。髪もさらに短くカット。
3番目の夫、ジャック・ドワイヨンとは、一度も出歩くことはなかったと思います。
それは密室での秘密の生活でした」
「自己顕示することも、メイクに煩わされることもなくなりました。
自分を偽ったり、役を演じることはもうなかったのです」
「映画でも同様に、ノーメイクで役を演じました。自分を飾る代わりに、
人の肖像画を描きたい気持ちや誰にでもなれるような気分が湧き起こったほど。
それはとても良い感覚でした」
「だからといって、私が美しくないと感じることはありませんでした。むしろ、
ジャックの映画作品によって、私は突然シリアスさを演じるドラマチックな女優になったのです」
「やがて、人々は私の仕事について語るようになりました。それはもはや私が美しく
見えるかどうかでなく、女優や歌手としての評価でした。とてもいい気持ちでした」
「かごバッグすらなくなりました。ジャックは小道具が嫌いでかごバッグのことも
そう感じていました。私がイングランドに向かうとき、彼は車をバックさせ
バスケットを轢いて潰してしまったのです」
「自分の荷物を全部スエードのポーチバッグに詰め込み、飛行機に乗り込んだとき
のこと、たまたま『エルメス』のCEOだったジャン=ルイ・デュマと隣の席になりました。
そこで全ての物がポーチから飛び出てきてしまうということがあり、私たちは
ハンドバッグのデザインについて話し合ったのです。私がエチケット袋に絵を描き、
そのデザインのバージョンが最終的にバーキンバッグになったのです」
「母が高齢になる前、突然私に“なくなってしまったわ…”と言いました。何が
なくなったのかを尋ねると、母は“私の美しさよ”と答えました」
「彼女がどれほど美しかったかについて、語り続けなければならないのだろうか
と真剣に考えたことを、私は覚えています。でも最近、娘のルーに対して同じこと
を言っている自分に気がつきました! 私からちょうど若さが消え去ったときだったのです」
「かつて肉厚だった唇は急に薄くなり口元が変わりました。私は自分の腕を触って、
老いた母の皮膚にそっくりだと思ったのを覚えています。私は皮膚が少し柔らかく
なった母の腕を触るのが好きだったから、全然気にならないのです」
「人々は気を利かせて“まだ美しい”と言ってくれます。しかし私は、もし周りの人が
他のことを言うようになっても、全く問題ないことを知っています。それを恐れたりはしません」
「何かしてしまってからでは遅いのです。美容整形なんて、私には怖くてできない。
とにかく、もう映画には出ないし、声が出る限り、歌の仕事は続けられる。
文章も書いている。私にとって、それはとてもすばらしく楽しいことなのです」
Realization : Hannah Nathanson、Translation & Text : Nathalie Lima KONISHI
8月7日の同ニュース。
本作『ジェーンとシャルロット』は彼女の初監督作にして、母ジェーンを見つめたドキュメンタリー。といっても、そこは母と娘。いわゆるスターの素顔に迫る的なものとは一味違う。そもそもシャルロットにとって、本作はジェーンに会うための口実だったのだとか。異父姉ケイト・バリーの死を機にニューヨーク暮らしをはじめたことで、母との間にいい距離感が生まれたというシャルロットだが、ジェーンは彼女が10歳になる前にセルジュのもとを去っている。多感な時期を父のもとで過ごした娘と母には、おたがいに遠慮のような気遣いがあったのだ。つまりカメラを媒介とすることで、普段なら面と向かって聞けないことも聞ける。少女時代の自分をどう思っていたか。娘はずっと知りたかったことを尋ね、母も誠実に答える。でも、そうした単刀直入さはカメラを向けられる側にとっては恐ろしい。実際、この対話も含む日本での撮影後、ジェーンが本作のキャンセルを申し出る事態もあったそう。
けれども、シャルロットは決してジェーンを問い詰めたりしない。彼女の人となりそのままの穏やかさで問いかけ、見つめ続けるのだ。亡きケイトへの想いを尋ねることができるのも、ジェーンが抱え続ける喪失感を話すことができるのも、同じ哀しみを抱える実の娘だからこそ。ファンの聖地であるヴェルヌイユ通りの「セルジュ・ゲンズブールの家」をふたりで訪ねたり、コンサートで日本やニューヨークを飛び回っていたり、彼女たちが特別な存在であることを思い出させるシーンはもちろんたくさんある。でも、そんなふたりの対話を通して浮かび上がるのは、ものすごく普遍的な母と娘の想い。シャルロットがジェーンに抱く想いの数々には、セレブ育ちならぬ身でも自身の母への想いを重ねずにいられなくなる。公開目前にジェーンの訃報が届いたけれど、とりわけ、母への愛が深まるほどに増す、いつか必ず訪れる別れへの不安には激しく胸を揺さぶられたものだ。
それにしても、映像と空気感が素敵すぎる。いかにもドキュメンタリーなインタビューカットはなく、語り合うふたりを捉える映像も何気におしゃれ。なによりときめくのは、ブルターニュにあるジェーンの家。娘たちの子ども時代の思い出も詰まった海辺の家は、無造作に置かれた雑貨さえも絵になりつつ、居心地が良さそう。その暮らしぶりから伝わってくるジェーンの肩の力の抜けた生き方。そして、ずっと世間の注目を集める環境にありながらも、穏やかさと優しさを持つ女性に育ったシャルロットの強さ。そのどちらも素敵だなと、改めて思う。
『ジェーンとシャルロット』 監督/シャルロット・ゲンズブール 出演/ジェーン・バーキン、シャルロット・ゲンズブール、ジョー・アタル 8月4日よりヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国順次公開。2021 NOLITA CINEMA – DEADLY VALENTINE PUBLISHING / ReallyLikeFilms
※『anan』2023年8月9日号より。文・杉谷伸子
長女ケイト・バリーとの関係
7月16日にジェーン・バーキンが76歳で逝去した。2013年12月にパリのアパルトマンから転落し46歳で亡くなった長女のケイト・バリーの元に旅立った。
【写真】ジェーン・バーキンと愛する3人の娘たち
ケイトはジェーンの最初の子どもだ。姉妹の中で一番控えめな性格だと本人は語っていた。そして、おそらく一番ミステリアスな娘だった。7月16日にジェーン・バーキンが76歳で亡くなり、失われた楽園で待つケイト・バリーの元へ旅立った。長女のケイトは2013年にパリのアパルトマンの5階から転落し46歳で亡くなった。母はその後何年もうつ病に苦しみ、子どもを失った悲しみは死ぬまで癒えることはなかった。「私にはもう生きる権利がない、私はもう終わったと思っていました」。昨年に放映されたドキュメンタリー番組『ジェーン・バーキン……、そして私たち』のなかで、ディディエ・ヴァロのインタビューに応えて彼女はそう振り返っていた。「自分が見ているもの、自分が感じていること、自分自身のこと、そんなことなどどうでもよくなってしまった」。ケイトは「自分にとってのチャンス」だったから、とも彼女は語っている。ケイトは母親と一緒にロンドンからパリへ渡ってきた。かの有名な籐の籠に揺られて。
「父親代わり」
ジェーン・バーキンがケイトの父親であるジョン・バリーと出会ったとき、彼女は17歳になったばかりだった。ジョンは『ジェームズ・ボンド』や『ダンディ2華麗な冒険』、『愛と哀しみの果て』などのサウンドトラックを手がけたことで知られる映画音楽作曲家だ。ふたりの出会いから1年足らずの1967年4月8日にブロンドヘアの可愛らしい長女が誕生する。その頃のジェーンには母親という役割を手際よく成し遂げる力量はまだなかった。「最初の子どにとってはとんだ災難。かわいそうなケイト!なんてひどいヒステリーを起こしたことか」と、ジェーンはつい最近もヤン・バルテスに語っていた。成人するとすぐ、13歳年上のジャズピアニストでトランペット奏者のジョンと結婚した彼女は、主婦の日常にどっぷりつかり、1日中、赤ちゃんとふたりきりで過ごす日々を送る。彼女が思い描いていた生活とはかけ離れていた。「毎晩、彼のために夕飯を作っていました。退屈な結婚生活でした」と彼女はよく語っていた。1968年、こうした生活にようやくけりがつく。ピエール・グランブラ監督作映画『スローガン』の撮影に参加したベビー・ドールは、共演者のピアニストで作曲家のセルジュ・ゲンズブールと出会う。大恋愛の常として、出会った当初はどちらも相手のことが苦手だった。しかし結局、互いに惹かれ合うようになる。
1969年、もう一度自分の夢に賭ける決意をしたとき、ジェーンはまだ22歳だった。ジョンと離婚した彼女は青春時代を送ったスウィンギング・ロンドンを後にし、新しい恋人の元へ行くため、籐籠で寝息を立てる幼いケイトとともにフランスの首都へ渡った。ケイトはまだ2歳にもなっていなかった。大きな丸い瞳の女の子はたちまち『地下鉄の切符売り』の歌手の心を掴む。ゲンズブールは「父親代わり」という新しい役目を精一杯務めた。2年後にふたりの間に娘シャルロット(ゲンズブール)が生まれても、彼は父親としてケイトに変わらぬ愛情を注いだ。パリのヴェルヌイユ通りのアパルトマンやサントロペの高台の別荘を背景にステップファミリーの幸せな瞬間を収めた写真が数多く残されている。
まずファッションを志す
後に才能ある写真家として頭角を現すケイトが初めてカメラを手にしたのは、ある意味でゲンズブールのおかげだ。「カメラを始めたのは子どもの頃です。最初はセルジュのポラロイドでした。彼はとても神経質でしたが、カメラに触れるのは許されていました。私にとっては奇跡のようなものでした。ほぼ瞬時にイメージが現れるなんて」と、ケイトは2009年に雑誌『パリ・マッチ』で語っていた。当時、写真への情熱は趣味以上のものではなかった。ミニドレス、ブルージーンズ、白のタンクトップがトレードマークのファッションアイコンの母親の元で育ったバーキン家の長女は「ごく自然に」服飾デザインに興味を抱くようになる。「デザインの道に進んだのは、専門の学校があったからです。真っ当な職業のように思えました」と、ケイトは後にテレビ局Cap 24の番組で語っている。こうして彼女は1984年にパリのオートクチュール組合学校を卒業する。
16歳のケイトは4年前から母親の新しいパートナーである映画監督ジャック・ドワイヨンの家で暮らしていた。ジェーンとジャックが出会ったのは、1980年に撮影が行われた映画『放蕩娘』がきっかけだった。「ゲンズバール」と自称した夫のアルコール癖と奔放な女性関係に嫌気がさして、ジェーンは彼の元を去っていた。このときもシャルロットを腕に抱き、やはりケイトを道連れにして。やがて3人姉妹の末っ子、ルー・ドワイヤンが誕生する。親たちが赤ちゃんに哺乳瓶を与えている間に、ケイトはコカインを初めて経験する。2度目、3度目と続き、彼女はコカインを常習するようになる。彼女が感じていた生き辛さの原因は何だったのだろう?母親と父親たちの離別かもしれない。あるいは、不安定な生活環境にあった彼女に親たちの名声が重くのしかかっていたのかもしれない。
アルコールや薬物、薬に依存するようになった彼女だが、1987年にパスカル・ドゥ・ケルマデクとの間に息子ロマンが誕生したことを契機に、人生を取り戻そうと一念発起する。当時、彼女はまだ19歳だった。雑誌『レクスプレス』によると、彼女は義理の母親のおかげでイギリスにある依存症治療センターに入所したという。そして1991年に彼女は人生の転機を迎える。その年の3月2日にゲンズブールが亡くなると、24歳のケイトは運命のカードを切り直す。彼女はデザインの仕事を辞め、薬物依存症相互支援予防団体Apteを立ち上げる。そして、幼い頃からの情熱の対象である写真に全力で取り組む決意をする。控えめで大きな心の持ち主であるケイトは、カメラのレンズの後ろに自分の居場所を見つけたのだ。そして彼女は写真に自分のすべてを注ぎ込んだ。「ファッションの世界で学んだことすべてが写真に役立ちました。私が撮影しているポートレートの大半が女性や女優たちのポートレートです」と『パリ・マッチ』のインタビューで彼女は語っている。
才能を開花させた彼女は、『ヴォーグ』、『エル』、『パリ・マッチ』、『マダム・フィガロ』、さらには『サンデー・タイムズ・マガジン』まで、多くの有名雑誌と仕事をするようになる。しかし、彼女が飛躍するきっかけを与えたのは、フランス・ギャルだ。1996年にミシェル・ベルジェ亡き後、初めて発表されたアルバム『フランス』は永遠の傑作として高く評価され、ケイトが撮影を手がけたジャケットはいまや神話となっている。他にも、カトリーヌ・ドヌーヴ、カーラ・ブルーニ=サルコジ、モニカ・ベルッチ、ヴァネッサ・パラディといったスターたちが彼女の被写体となっている。「”コレクション”を何回か経験した後、ファッションの仕事とは手を切りました。それから社会活動に方向転換して、非営利団体の運営に専念しました。写真は普段から撮っていましたが、仕事として撮っていたわけではありません。私にカメラを与えてくれ、励ましてくれたのは、一緒に暮らしたふたりの人たちでした。自分が就くべき職業が何なのかを人に教えられてようやく知るという姿勢は、シャルロットと母と私の共通点でしょうか?多分そうでしょう」
熱心な活動家でもあるポートレート写真家は、ゆっくりとではあるが、写真と政治活動を結びつける道を見出していく。2012年には乳がん患者のための情報誌『ローズ・マガジン』創刊号の表紙を手がけている。その1年後の2013年12月11日に、彼女は入居して間もないパリの16区にあるアパルトマンの5階から転落する。事故か、それとも自殺か?真相は誰にもわからない。この悲劇的な出来事に打ちのめされたシャルロットはフランスを離れ、家族とともにニューヨークに移住する。「胸が痛みました。6ヶ月前に姉が亡くなったパリを離れるのは、逃げるような気がしたから。母はもちろんその頃、とても苦しんでいました。妹のルーも同じです。でも私はとにかく自分の命を守りたかった」と、彼女はいま当時の心境を振り返る。2018年に日記『マンキー・ダイヤリーズ』を上梓したジェーン・バーキンは、ラジオ局フランス・アンテールの番組に出演した折りに、この出来事について触れている。彼女は3人の娘を育てたという自負があったと語っている。呑気でもあったと。それらは長女の死によって失われた。「娘が死んだとき、私はこうした自信を持てなくなりました。何も手につかなかった。私にとって人生は終わっていて、パラレルライフを生きているような感覚でした」。2020年、7年の沈黙を経て、彼女は娘の死について、朧げながら、自分の思いを断片的に明かしている。『煙草』というタイトルの楽曲のなかで、彼女はこんな意味慎重な歌詞を書いていた。「私の娘は宙にダイブした/地面に倒れているのが見つかった/窓を開けたのは/実は、煙を外に出すため?/目撃者は/猫2匹、犬1匹/鸚鵡1羽」
text: Léa Mabilon (madame.lefigaro.fr)