ミラボー橋 和訳 文学的シャンソン アポリネール
いわゆる文学的シャンソンで一番有名かもしれない。
コスマの「枯葉」もあるけど。レオ・フェレ自身、
ボードレールの「悪の華」も取り上げているしネ。、
舎人独言の中ではフェレがランボーの詩を歌った
「ロマンス」もあります。
作曲のレオ・フェレ
Anne Sofie von Otter アンネ・ゾフィ―・フォン・オッター
(スウェーデンのメゾソプラノ歌手)
アトピーや乾燥肌など肌トラブルでかゆい方の約70%はかゆみが消えます。
ステロイドで効果がない方を含めてです。
で、魔法の水 とよく言われます。違います。
「宇宙」とか「人体」と同じように、現代の科学がまだ追いついていないだけ。
ヒスイウォーターは新しい技術として注目されている、太陽光と同じマイクロ波や
テラヘルツ波を生かした水。舎人が約20年も飲み続けている安全で美味しい品格の水です。。
かゆくて眠れない方のヒスイウォーターリポート
青雲舎(株)の翻訳を信じるなら翡翠マグも信じてくださいネ。
明治時代の人には電子レンジが信じられないようなものですが、
誰もディスっていないでショ?^^ ちょっとしたキセキなのです。
味わい・お茶・お酒・味噌汁などで試していらっしゃる方のヒスイウォーターリポート
Marie Laurencin マリー・ローランサン との恋の終わりを描いた
Le Pont Mirabeau ミラボー橋 です。
出逢いは、詩人の彼アポリネールが27歳、画家の彼女は22歳。
その6年後の感慨です。青春の終わり だったのでしょう。
「時の流れ」を紹介した、あのレオ・フェレが曲をつけました。
決定版がないのがこの有名曲の泣きどころ。個人的にはテンポをもう少し
落とし、乗っているメロディから逸脱して話しているようになってしまう、
ワルツの楽しさなんか感じさせないパフォーマンスがいい。
しかも、それでも懐旧の恋の甘やかさも漂っていたりして(注文、多すぎ!)
ずっと下、一番下の動画はアポリネール自身による朗読。
これを聞くとレオ・フェレがワルツで作曲したのが時代の感覚を正しく写し取って
いたように感じられます。ジュ・トゥ・ヴ とか、当時はフランス社会にワルツが現代よりも
より濃厚に浸透していたのですから。恋はワルツに乗って、なんて感覚もあったりしたのでしょう。
ただ失恋をワルツで歌うのかなぁ? 「サンジャンの私の恋人」は失恋ワルツだったけれど、あれは痛手
よりも夢身心地を音楽で表現していた。グレコの「街角」も失われた時代への郷愁をワルツに乗せていた。
フランス人のワルツ好きは、日本人が思う以上に奥深いのかもね。
そいう言えばミレイユ・マチューのLa valse bleue みずいろのワルツ(4つ目の動画) なんか、
なんでワルツなのかなぁって10代のころ不思議でした。ワルツで表現することで、たとえ失恋でも、
結果として優雅な振る舞いになるから? つまり élégant エレガント に振る舞う結果のワルツ?
この「ミラボー橋」にしても、現代人の耳には大げさで時代がかって聞こえますが、なぁに最後のショパン
弾きとか言われたサンソン・フランソワのショパンのワルツも大げさかつ感傷におぼれたがっていました。
ちょっと勘弁してくれといった音楽だったわけで。「ミラボー橋」がワルツ仕立てとなった理由は
やっぱレオ・フェレの時代感覚だと思うけどナ。
作曲のレオ・フェレ、Marc Lavoine マルク・ラヴォワーヌ(5番目の動画)のほか
ミシェル・デルペッシュ(軽すぎるけどベターか?)らの動画もどうぞ♪
セルジュ・ラマ と PIXOTE は、レオ・フェレとは関係ない音楽となっています。
イヴェット・ジローも厳しさではいい感じなんだけど。
オッターの歌唱が実は今、一番に気に入っています。
文学的シャンソン chanson littraire シャンソン・リテレール
としては、今まで同じくレオ・フェレが曲をつけている
ランボーの ロマンス、ブラッサンスが作曲したアラゴンの 幸せな恋はない、
ジョゼフ・コスマが作曲、ジャック・プレヴェールが作詞した 枯葉 を翻訳しています。
文学レベルに達しているシャンソンって多いですけど。
ミラボー橋の下 セーヌは流れる
そして わたしたちの恋が・・・
忘れてはいけないのだろう わたしは
喜びはいつだって苦しみの後にやって来た
夜よ来い 鐘よ、鳴れ 時を告げ
日々は過ぎゆき わたしを置き去りにする
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手と手をつなぎ 顔を向き合わせていよう
わたしたちの腕がつくった架け橋の下
過ぎてゆくうちは
永遠の眼差しとなった 疲れ果てた波が
夜よ来い 鐘よ、鳴れ 時を告げ
日々は過ぎゆき わたしを置き去りにする
恋は去ってゆく この流れる水のように
恋は去ってゆく
人生の歩みのなんと遅く
希望というヤツのなんと残酷なことか
夜よ来い 鐘よ、鳴れ 時を告げ
日々は過ぎゆき わたしを置き去りにする
過ぎゆくは日々 幾つもの一週間がゆく
過ぎ去った時間も 恋というものも 帰ることはない
ミラボー橋の下 セーヌは流れる
夜よ来い 鐘よ、鳴れ 時を告げ
日々は過ぎゆき わたしを置き去りだ
無断転載はご容赦ください。リンクはフリーです。
上はMireille Mathieuの「みずいろのワルツ」
堀口大学訳では Faut-il qu’il m’en souvienne は
「わたしは思い出す」と、 Faut を訳出していません。
実は疑問文・・というよりむしろ倒置による強調か。
要は、今は失意の最中にあるが、忘れてはいけないのだ
この苦しみの後だって、喜びはやってくるのだ! といった感慨。
Remember Pearl Harbor は、真珠湾攻撃を受けたアメリカ側の
日本に対する報復を誓った合言葉でした。
「覚えていろ パールハーバー」じゃなくて
「パールハーバーを忘れるな」と訳されるのが普通だし
カッコよく決まりもします。
ということで souvienne の訳語に 忘れない を採りました。
la peine は、苦しみ と訳した。
しかし悲しみ、トラブル、ペナルティなどの意味もある。
このシャンソンではそんな要素が全部詰まっている気がします。
いつまでも過ぎた恋を思いだしてしまう自分がうとましい。
そんな自分を離れて、いつかは この悲しみ=トラブル=ペナルティ
を昇華し、喜びが来るはずと自分に言い聞かせている状況です。
Des éternels regards l’onde si lasse の
Des が、どこにかかっているかがひとつのポイントでしょう。
si lasse 余りに疲れた 状態にある l’onde 波(複数)が
éternels regards 永遠の眼差し(視線)というものに des なっている
と、解釈しています。しかし、全体の主語が l’onde 波 で
最後に出てくるからやっかいだネ。最後にもってくることで
波がいきなり鮮やかに映像化される強調効果がありますが。
余りに疲れ、永遠の眼差しとなった波が とやれば翻訳は簡単だけど^^:
アポリネールとローランサンはピカソの個展で、ピカソに紹介されて
出会いました。1907年です。ピカソには、二人は惹かれあうはずと
ピンとくるものがあったようです。
二人の別れは、ルーヴル美術館で起きたモナ・リザ盗難事件が原因。
事件発生後、親友ピカソと怪しい行動を取ったアポリネールは犯人
として逮捕され(この辺、詩人や画家の世間知って、センスがないというか、
いまひとつダサいんですね。無関係と真面目に釈明するほどにあっちこっちして
滑稽味を帯びてしまう。まっすぐに核心をつくことができないんですね。
絵画や言葉ではやってることなのに)、ローランサンはすっかり気持ちが醒めてしまい・・・。
でも、ローランサン、どうなんだろう? 結局、真犯人は別につかまった
わけで、信じる気持ちがなかった・・・と反省してもよさそうなケースですが。
二人はそれぞれ別の相手と結婚したけれど、文通は続けていたようです。
ローランサンが亡くなった時、胸の上に、遺言によってアポリネールの手紙
の束が置かれたそうです。しかし、それくらいなら・・・。
ま、でも、お蔭で「ミラボー橋」が書かれました。
一番下にアポリネールが事後、ローランサンに捧げた「マリー Marie」
の全詩を。
レオ・フェレ です。結局、ベストなのかも。
ずっと後に彼が曲をつけたら・・・? もっとキビシい音楽になったと思うけどね。
ちょっと時代がかった表現と感じるのは、あくまでも個人的感想ですが。
誰かの現代的表現を得て、この名曲が永続することを願ってやみません。
Michel Delpech ミシェル・デルペッシュ
聴きやすさでは一番だが、さて、それでいいのか?とも。
下は Serge Reggiani セルジュ・レジアニ のレシテーション。
この詩の雰囲気としては、まさにこんな感じではないでしょうか?
25の動画で紹介するウェディングソング隠れた名曲集はここから
舎人独言には
★エロスに変容するバラの寓意
★ノートルダム大聖堂の聖なる秘数
★オパキャマラドの風景
★映画「華麗なる賭け」チェスシーンのセクシーの秘密
★名盤「クリムゾン・キングの宮殿」の実在のモデル発見
★映画「男と女」サンバ・サラヴァの謎
といった解読シリーズがあります。
POW WOW というコーラスグループの 1995年の音源。
この文学的シャンソンを現代に定着させるためには・・・
という努力のひとつですね。
PIXOTE これも違う曲がつけられています。
Yvette Giraud イヴェット・ジロー
できるだけキビシい曲にしようとしていると思います。
これが一番かなぁ。どうだろう?
Vadim Piankov
レオ・フェレの曲ではありません。
結構多くのアーティストが自作曲をつけたりしていて
ワルツで浮かれてる場合じゃないだろ、みたいな異議申し立てを
行っているようです。
フランスでは合唱曲なんかにも仕立てたり、いろいろ試みられていますが
そこは詩のパワーが発動しているわけで。
Guillaume Apollinaire アポリネール自身による朗読
やっぱりワルツの感覚があるのでは?
それが時代の感覚なのでしょうが。
音楽として、やっぱりレオ・フェレのワルツは正しく時代を反映して
間違ってはいなかったように思わさせられます。
アポリネール の「マリー」
Vous y dansiez petite fille
Y danserez-vous mère-grand
C’est la maclotte qui sautille
Toute les cloches sonneront
Quand donc reviendrez-vous Marie
Les masques sont silencieux
Et la musique est si lointaine
Qu’elle semble venir des cieux
Oui je veux vous aimer mais vous aimer à peine
Et mon mal est délicieux
Les brebis s’en vont dans la neige
Flocons de laine et ceux d’argent
Des soldats passent et que n’ai-je
Un cœur à moi ce cœur changeant
Changeant et puis encor que sais-je
Sais-je où s’en iront tes cheveux
Crépus comme mer qui moutonne
Sais-je où s’en iront tes cheveux
Et tes mains feuilles de l’automne
Que jonchent aussi nos aveux
Je passais au bord de la Seine
Un livre ancien sous le bras
Le fleuve est pareil à ma peine
Il s’écoule et ne tarit pas
Quand donc finira la semaine
Guillaume Apollinaire, Alcools, 1913
少女の君は踊っていた
おばあさんになっても踊るのだろうか
こうやって跳ねまわるマクロットダンスを
すべての鐘が鳴り渡るんだ
君はいつ戻ってくるんだ マリー?
仮面の人々は沈黙してる
そして音楽ははるか遠くで鳴っていて
まるで天国から聞こえてくるようだ
そうだ 僕は君を愛したいんだ だけどほんの少しだけ
それなら僕の苦しみもわずかで済むから
羊たちは雪の中を去って行く
羊毛の房と 銀の房
兵士たちも通り過ぎる もし僕にもあったなら
うつろいやすい心が自分に
うつろい そしてそれに気付かない心が
知るものか 君の髪がどうなるかなど?
泡立つ海のようにうねっている髪が
知るものか 君の髪がどうなるかなど?
君の秋の木の葉の手が
僕たちの誓いまでを撒き散らすのだ
僕はセーヌのほとりを歩いた
古い本を腕に抱えて
川は僕の苦しみに似ている
流れて 決して涸れることはない
いつ今週は終わるのだろう?
君はいつ戻ってくるんだ マリー?