パワーストーンの真実。

舎人独言

健康&グルメに・・・ 翡翠 のパワー。

狭き門 ジッド 2 孤独の名曲集 

最近の科学による分析では、恋愛とはほとんど性的欲望のことだと聞きます。
恋愛という精神の高揚は確かに肉体の火照りと重なったりします。
一緒に乗るジェットコースターのドキドキ感を恋愛と錯覚するそうですね。
だから女性を口説くにはジェットコースターがいい。
でも騙(だま)しが介在しています。男の側にも女の側にも。
誠実な恋愛とは厳密には言えないでしょ?
3、4年で賞味期限が切れる恋?
燃えられるなら何だっていい? 孤独でなくなるなら・・・。

アリサは、そこに気づいてしまったのではないでしょうか?
ジェットコースターに二人して乗ってしまいたくなるような
自分の心の動きを、どうしても見つめてしまうのです。
やはり、ジェロームと二人して高みへ昇ろうとする気持ちを
どうしても肉体の火照りと混同はしたくなかった。
ごちゃまぜにしがちな自分を安易に見逃したくはなかった。
それが自分自身とジェロームに対して誠実であること。

Agnes Baltsa    アグネス・バルツァ  
The train leaves at eight   Το τραίνο φεύγει στις οκτώ.
汽車は8時に出る  (テオドラキス作品)
五木寛之が日本語歌詞をつけて森進一が歌っています。
韓国ドラマ「白夜」では、チョ・スミ 조수미 のパフォーマンスが
使われたそうです。 기차는 8시에 떠나네  汽車は8時に発つ

高みを目指す崇高な恍惚を、肉体の恍惚から峻別しなくてはいけなかった。
アダムとイヴが所有していた肉体とは次元の異なる
欲望の浅ましさから遠く離れた聖(きよ)らかな肉体があれば
その火照りもまた違ったものであるでしょうに。

だから何度も何度も自分に問いかけ、
「わたしは都合よく混同していないか?」
と、神の目に見守られ、監視されながら
堂々巡りの検証を重ねたのではないでしょうか? 
そう思い至ると、ひとつの疑問が沸き起こります。
アリサにとって、いったい神とは何だったのでしょうか?

失恋の後、自分の書いた歌詞が胸に迫って
なんども歌いなおしをしてしまう涙のステージ。
和訳は イ・ソラ どうか のページで。
歌の意味を知りたい方はご検索ください。

イ・ソラ どうか

アリサは主(神)に向かって祈り、すがり、呼びかけたはずです。
その時、彼女の言葉はほとんどジェロームにかかわるもの
ではなかったでしょうか?
主に対面して呼びかけているけれど、その主の向こうに
実はジェロームがいたのではないか? 

いいえ、ただジェロームということでもない。
それは、主でもなく、ジェロームでもなく
アリサとジェロームという二人が持つべき理想の
あるべき至純な恋心 だったのではないか? 
理想という、その無慈悲な鏡に自身を映し出し
ジェロームと相談することなく自分を、自分だけを、
糾弾さえしたのではないか?
(こんな女性、普通いません。相談する、つまり男性と
分け合ったほうがずっと楽ですから)

主(神)はアリサの心にあってアイコンとしては機能しました。
天皇機関説ほどシステマティックではなく
始めはもっと無邪気で無意識なものだったでしょうが。
アリサの中で、ジェロームとの愛のほうが神への愛にまさっていた。
「なぜ愛は信仰より重要なのか。
なぜなら、信仰は<より大きな愛>へと導く道でしかないからだ」
(パウロ・コエーリョ「不倫」)

Simone シモーニ  Eu preciso de você - わたしにはあなたが必要

神というアイコンは、ですが、実は、理想とする恋愛観だった。
アイコンの名前は、あくまでも神です。
アリサが心から拠り所とする 主 なのです。
ですが、クリックして開けば
中身はジェロームばかりが目立つのではないでしょうか?
もちろん主も存在していたはずです。ですが多くのケースで
やはりジェロームへの想いにかかわってこそ
神が存在したのではないでしょうか?

折に触れて思い浮かべ、呼びかける意識は 主 であっても、実体は
アリサとジェロームが持つべき 聖らかな法悦のような理想形の恋愛
に置き換わっていた。
アリサは堂々巡りの中で、残酷にも、それに気づいたかもしれません。
そして、そんな風に感じてしまうようになった自分は、もはや
主からも離れてしまった、つまり
主からも見捨てられた、と感じていたのかもしれません。
ジェロームを断ち、主からも遠く離れて。
それでもジェロームを求め、主にすがるしかなく。
アリサの孤独の闇は深く濃く、死の闇へと近づきます。

アリサの最後の日記です。
「今は、はやく、死にたい。もう一度自分が
一人だなどとわからないうちに」

Catherine le Forestier  カトリーヌ  La chambre rouge 赤い部屋

象徴的にもスイスのベルンで市民が時計台を建てて
神=教会から奪い、キリスト圏の人類は
自分の裁量が可能なものとして 時間 を手に入れました。

今度は恋愛という精神に大きくかかわるモノを、
自らに付与されたものとして手に入れる段階です。
恋愛を自由にすることを通して獲得されるべき近代的自我。
現代の女性は、結婚の妨げになる神の存在など
信じられないでしょうが、それはアリサが
「(略)下劣なほど肉欲的な喜びと、下劣なほど平凡な目的
しかない、この時代に・・・」(ドリアン・グレイの肖像)
悩みぬき、煩悶しつくした成果なのかも知れません。
一人で立ち向かうにはあまりに重い十字架を背負ったのでしょうけれど。
(ドリアン・グレイの肖像はオスカー・ワイルド著、1890年発表)

Roberto Carlos  ロベルト・カルロス  
Proposta    提案

繰り返します。
致命的だったのは神ではなくジェローム。会うことを断つことで
衰弱して死を迎えるほどだったジェロームであったことと合わせ
「狭き門」とは一見、信仰を装いながら、実は徹底的に
恋愛小説ではないのかという構造上の疑問が提起されるべきでしょう。
(2015年6月28日現在「狭き門」で、神=アイコン説や
信仰の書でもあると見せかけて実は徹底的に恋愛小説だ、
とする意見はネット上、ほかにないようです)

ニーチェは「神は死んだ」と書いたけれど、そのずっと前にルターが
神は個人的信仰に拠る、とした時点で最初の「神殺し」がありました。
もちろん、その前に、ユマニスム(人文主義)と合理性をもって
中世を輝かせたルネサンスが、道徳的・倫理的課題を自分のものとして
内面化をしようとする人間をつくりだすことで、その流れを準備したわけです。
(人文主義の本来は、官僚を目指す者のための職業訓練だったとしても)

それでも民衆レベルでは日々の生活の中に、ごく自然に信仰が
組み込まれていたけれど、以下のような事件を内包しながら
人間としての主観性の獲得という近代へ歯車が進みます。たとえば
スイスのカルヴァンは「神はつねに誰が救われ、誰が地獄に堕ちるかを
予定しておられる」と天命は絶対的であり、人間は無力と説きました。
原子の中で物質を生かす霊的な力である神を信じ、仲介は必要ない
と火刑台の上で十字架を拒否したブルーノ。保身のためにブルーノの
名を口にしなくなったデカルト、そして無宗教的なスピノザ・・・と
それでも少しずつ神から自立してきたわけです。

フランス革命にあたって1790年7月、フランスは聖職者民事基本法を成立させ
非キリスト教の国になってさえいます。ただナポレオンが共和国第一執政となった
1801年7月、革命で民心が荒廃したフランスに秩序をよみがえらせるべくローマ教皇と
宗教協約を結び、再びキリスト教国となっています(信教の自由は保障)。フランス革命では
神の代わりに理性を置きたかったのですが、クリスマスほかカトリック信仰に基づくさまざまな
お祭りも取りやめとなっていて、庶民としてはどうも調子が出ないのです。教会所有の財産も
国有化され、聖職者は共和国憲法に忠誠を誓うことを要請され、これを拒否してローマ教皇に
忠誠を誓って従来通りの信仰を選ぶ聖職者と、宗教界はまっぷたつになっていたのを、二年
ほどかけて教皇庁と協議を重ね、ようやく民心を安定させました。

先ごろ焼失したノートルダム大聖堂など革命では略奪と破壊の対象とされ
ナポレオンが戴冠式をしたときは、見苦しいところを布地で覆って
行われています。荒廃されたままの大聖堂を復活させようという機運
がたかまったのは、19世紀前半、ユゴーが「ノートルダム・ド・パリ
(ノートルダムのせむし男)を大ヒットさせてからようやくでした。

しかし革命精神としては、ナポレオン暗殺を謀ったと不当な疑惑を受けた
アンギャン公爵が裁判直後に銃殺されるとき司祭を求めると、
「こちこちの信者として死にたいのか?」とヤジが飛んでさえいます。
相当に強烈な、そして浅ましいほどの言動の神からの離脱ですが。

Charles Dumont & Judith Magret シャルル・デュモン
Lea   レア

宗教画も信仰離脱の動きに対処して描かれたりしました。
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは1440年、フランドル(ベルギー)の
司祭の依頼をうけて祭壇画「七つの秘蹟」(三幅)を描きましたが
これは余りにも人々の集まりが悪かったことが契機だったとされます。

これに呼応するように、民衆の神からの離脱も進みます。
1770年から10年間、パリで行われた調査で
教会の信者席が埋まるのは年に2、3回、大きな式典のときだけ
などという報告もあるほどです。
フランス革命後の1793年、「女法王ジャンヌ(ヨハンナ)」という
都市伝説に基づく音楽劇が上演されていますが、当時、ローマ法王に
忠誠を誓う司祭、修道者が次々とギロチンで処刑されていた背景があります。
とにかく反教会権力主義という社会の情勢だったわけです。

Jessye Norman ジェシー・ノーマン
R.Strauss  リヒャルト・シュトラウス 4つの最後の歌
Im Abendrot  夕映えの中で

もっともドイツのカント(1724-1804年)なんか、
神の存在証明は不可能、しかし純粋理性では不可能としても
実践理性によって神は想定することができる、というところまでで
まだ神を手放すまでの認識ではありません。

さらに時代は下り、19世紀後半には「神は敵」などと書いた出版物が出され
ユゴーは「レ・ミゼラブル」(1862年)の序文で「自分は現在の特定の
どの宗教とも無縁であるが、すべてを容認しすべてを尊重する」と書いて
フランス社会全体の信教の自由が進んでいることを裏付けています。
近代化とは、神から離れ、人間の主観性を獲得・確立していくことであり
それこそがまぎれもなく近代的自我の発生と確立だったわけです。

1889年3月に完工したエッフェル塔建設当時を時代背景とした
舞台女優や高級娼婦らを描いた「ナナ」で、著者のゾラは登場人物に
「教会はガラガラだし、世も末ですよ」と語らせています。

김희정 キム・ヒジョン(ソプラノ)
그리워  クリウォ(恋しくて)

都市に住むブルジョワの、特に男性の無宗教ぶりは
次第に多数となりました。19世紀末には洗礼、結婚、埋葬を
カトリック教会で行いつつ、反宗教を語ることはむしろ一般的な
教養の一部ともなっていたようです。
時代は自由思想家の時代であり、自由思想家とは何かを信心する
ことなく、科学の権威のみを認める者たちのことでした。

そして知識人一般の傾向として、論議はするけれど
こと宗教に関して「目立たないでいること」が
選択されていた時代でした。
(この項「無神論」による、竹下節子著)

人間はこうして特に生命の危険を感じることが少なくなった社会環境の下
個人的に無心論者ととなっていきましたが、それもまだ付け焼刃でもあって
たとえば「塹壕では無心論者はいない」といった言葉で現れされるように
何か事あると、つい、神なのか Super being なのか、人間の叡智を超えた
何者かに頼ってしまったりするのですが。

Zizi Possi ジジ・ポッシ
Yo tengo un pecado nuevo  わたしは新しい罪を持った

アリサの肉体とは、そして愛とは、そのように積み重ねられてきた
神からの解放という歴史の先端にポツンと置かれた存在
という意味があったのです。

「狭き門」を読み解くなら、少なくとも
当時の社会とキリスト教のかかわりようという視点は不可欠です。
もちろん脱宗教・自由思想の潮流ばかりでなく、たとえ
アリサの心にあって、習慣のようなアイコンでしか機能しなくても
幼い頃から親しんだ信仰という個人的習慣は容易に捨てがたいという点も。

「誘惑に導き給うな。われらの罪を赦したまえ。
われらの悪を清めたまえ」(ドリアン・グレイの肖像)といった祈りを
幼い頃、しつけられ、
「神の啓示を拒否するのは人間の動物性のせいである」
という説教を聴かされていたなら、或る程度の階級に属する女性は
優雅さと慎み、良識と体面から、習慣としての宗教的な振る舞いを
やめたりすることは、ちょっとできないことでしょう。

김동규 キム・ドンギュ
낯선 재회 Passacaglia   見知らぬ再会 パッサカリア

ちょっと回り道をします。

上の動画の絵は、ムンク (1863年-1944年)の「接吻」です。
ジッド1869-1951年)と同時代人と言っていいでしょう。
西岡文彦氏は「恋愛偏愛美術館」で
「人々はまだ、『近代人』として生きることに慣れていなかったのである」
と前置きして次のように論評します。

「ムンクやクリムトの描く男女の孤独感は、自由であることの代わりに
孤独な近代人が、やはり自由で孤独な近代人の伴侶を見出し、神も王も
立ち去ってしまったこの地上で、お互いのみを支えとして抱き合うしかない
からこそかもしだされる感情といえる。彼らの画面は、互いの肉体の温かみと
性愛の歓びを互いの心の支えにするしかない二人であるからこそ、どれほど
強く抱きしめ合ったとしても、必然的にかもしだされてしまう孤独感を
描きだしているのである」

互いが顔をうしなうほどに溶け合い、恍惚とする男女。
アリサの日記(10月3日)には「私はまだ彼を感じる。彼を呼ぶ。
手が、唇が、夜のうちにむなしく彼を求める・・・」とあります。
心底ジェロームを慕い、彼との性愛を願いながら
どうしても自らに赦すことができないアリサの心の闇です。

ちなみに動物研究家、パンク町田氏によると
多くの動物は本当に仲良しの場合
口と口によるスキンシップを好むそうです。
人間のキスへの衝動は、生命の源へどこまで
遡ることができるのでしょうか?
ちょっと、もじもじしちゃう本能かな?

Alain Delon アラン・ドロン LAETITIA  愛しのレティシア

アリサの上品さは、作家ジッドの中途半端さでもあります。
神から離れつつあって、なおジッドの宗教的痕跡は抜きがたいものが
あったでしょうが、こうした歴史を背景とする精神的葛藤は
絶対的な神を持たない日本人全般にとって、容易には
理解しがたいところです。「狭き門」が日本人にとって
読み込みにくい書物であるゆえんの一つでしょう。

アリサの想いに戻りましょう。
アリサは聖らかな肉体を獲得できていません。

Julio Iglesias フリオ・イグレシアス  Somos  わたしたちは

考えるほどに、あとはこの想いを汚していくだけ。
その営為は、時々、ジェロームとの間でさえ必要なものか分からなくなる。
せっかく自分を励まして美しい想いであろうとしてきたのに、
肉の歓びが介在したら、わたしたちは
どんな風に変わってしまうのかしら?
そんなものがなくても、わたしたちの想いは、
こんなにも美しく輝いているのに。
(もちろんアリサが、アダムとイヴの肉体とは次元の異なる肉体を
再発見できていたら、この逡巡も悩みも不必要なのですが)

「あなた、私たちを憐れんでください。
ああ、私たちの愛を損なわないで」

Charles Aznavour シャルル・アズナヴール
L´amour c´est comme un jour  恋は1日のように

天が与え合った二人だから、もちろん
ジェロームも同質の想いを抱えています。
「結婚についても、その先に二人ですることについても、一度だって
話したことがない。アリサとの生活があまりに美しく思えるので、
僕にはできない・・・」
マリアージュ・ブランの要素は、アリサほどではなくとも
ジェロームが持つ資質なのです。だからこそ
ジェロームはアリサに相応しいのです。

しかし、むしろアリサの感受性のあり方が調子高いものでなく
自身のうちに潜む肉欲とうまく調和できていたら
アリサはどんなに美しく楽しい青春時代を送ることができたでしょうか。
アリサは、ドーパミンなど肉体内の分泌液の作用に振り回されるなど
獣的(動物的)に過ぎると感じ取り、誇り高い知性と精神を持つ
ひとりの人間として、それを自分に赦せなかっただけなのに。

Yves Duteil イヴ・デュテイユ & Enzo Enzo エンゾ・エンゾ
Au parc Monceau モンソー公園で

もちろん、アリサは、世間的な意味で、
性愛を素直に受け入れたほうが幸せだったはずです。
ジェロームとの穏やかで心満ちた家庭。
アリサが夢みなかったなどとは、とても言えません。
思い出してください。
「私はまだ彼を感じる。彼を呼ぶ。
手が、唇が、夜のうちにむなしく彼を求める・・・」は
多くの人間にとって、そしてアリサにとってすら
本来、当たり前の欲望に過ぎません。

哀しいほどにジェロームの肉体を求める気持ち・・・。だからこそ
上にアップしたイヴ・デュテイユとエンゾ・エンゾのように
家庭の日常生活の中で、穏やかな気持ちで
愛を交わすことができたはずなのに。

ダンテは「「人は美を崇拝することによって自ら完全となる」
と書きました。それは「情欲は大罪である」というキリスト教
の教えというより、もっと根源的な感覚です。
マリアージュ・ブラン的な自らの美意識と
プロテスタントらしい厳格さが相俟って、
そこまで願っていないのに完全を目指すように運命づけ
られていたアリサ、と言うべきなのでしょうか。

Yves Duteil イヴ・デュテイユ
Fragile

バイロン Byron は
Whatever she loveth, so she loves thee not.
What can it profit thee?
彼女がお前を愛していようと さもなくば愛していないとしても
それがお前のどんな得となるのか? 
と、詩の一節に書きました。

相手が愛してくれても、愛してくれなくても
自分とは本来、関係ないのだ と。
自分の抱える愛とは、たとえ相手が愛してくれなくとも
自分さえ望むなら、彼女とは関係なく続いていくのです。
愛してくれなくても、だから失恋にはならない。
まさにロマンティシズムの本家です。

とてつもないイケメンで、ひねくれた同性愛者で、そのくせ
女性を馬鹿にしつつ惹かれることをやめることができなかったバイロン。
快楽に飽き飽きしてさらに過激な快楽を求める放蕩者。
なまじ美しいものをみる能力がなければ、ここまで堕落はしないものを。

リュイス・リャック Lluis Llach の Laura ラウラ

アリサの想いに話を戻します。 
でも婚姻とは、そうした肉体による営為を伴うもの。
ジェロームとなら、きっとそれは幸せね。
でも、たとえ結婚という幸せを望まなくても、
わたしの愛は変わらない。
ジェロームとの幸せを犠牲にしてでも、
この想いが絶対であると証明してみせましょう。
そうやって、わたしとジェロームとの間に
絶対で清らかな想いが介在するなら、それこそ、
わたしたちが完成させる最も望ましい愛のはず。
それがジェロームとの愛の形、わたしたちの証明・・・。

Jane BIRKIN ジェーン・バーキン
Je Suis Venu Te Dire Que Je M’En Vais  手切れ

矛盾した言い方ですが。ジェロームを排除することで
アリサは二人の愛の絶対性と永遠性をつかんだのです。
たとえジェロームには完全に理解できないとしても。
その意味では。プロテスタンティズムに所属する形を取っているし
ピューリタンのしつけに親しんではいても
乙女の守護神である月の女神、アルテミスに仕える巫女こそ
彼女本来の姿だったのかもしれません。

そんな風にして、美しいものへの畏(おそ)れから
聖なるものへの憧れが生まれます。
(ジッドはキリスト者として、アリサがジェロームを受け入れず、
神への愛を選択したかのような表現をしています。
しかし、キリスト者でない者にも美しさへの畏れは普遍です。
もちろん、舎人の「読み=解読」でしかありませんが)

Luigi TENCO  ルイジ・テンコ
Quando  クアンド(その時) (Prima versione)

「知的な承認によって欲望を正当化したのだが、
その正当化がなされなくても、欲望はやはり
彼の気分を支配していただろう」
「ドリアン・グレイの肖像」の一節です。

賢明なる読者諸氏は、では、知的承認によって
欲望を正当化するタイプでしょうか?
それとも、正当化をしないまま、欲望によって
気分を支配されるタイプでしょうか?
日本人の心性、気持ちのあり方では普通
そんな面倒なことは考えませんが
そこも西洋と日本の「恋愛」の違いのひとつです。
アリサはもちろん、前者ですね。

知的承認という面倒な作業を経過するか、しないか。
性が、sexが、単なるエッチやスケベとは異なるための
大きな分岐点でしょう。日本人にとって社会的に認知される性が
どうも表層的なもので終わっているのは、普通、経過させないためでは
ないでしょうか?

後述しますが、宗教家でさえ妻帯を赦してしまう日本人の性意識。
現代は日本人の属性としての性意識の上に、時代的変遷なのか
解放あるいは平準的なコミュニケーション手段として発達し始めて
いるようで、性の意味が変化しはじめているかもしれない、
しかし知的承認はまず抑えるべき基本と信じます。
心の浅さ、深さに実は大きくかかわっている知的・心的作業です。

Елена Образцова    エレーナ・オブラスツォワ
Тёмно-вишнёвая шаль   ぶどう色のショール

知的承認はまた誠実な恋愛の守護神かもしれません。
たとえばルソーは当時の代表的知性と言っていい哲学者ですが
Les Confessions 告白 の中で、公然わいせつほか性的異常を
日常化させつつ神を信じているから罪ではないといった能天気
(と敢えて記します)ぶりを露呈しています。
知性と痴性は別物、身の下には身の上はあずかり知らないといった
獣性満開の男性ですね。彼にとって、性に知的承認が必要だったのか
そうではなかったのかは問題にならなかったのでしょう。
300年くらい早すぎた男かもしれない。いずれにせよ
経済能力もないくせに不誠実な恋人であったことは間違いありません。

Somos   わたしたちは
Julio Iglesias フリオ・イグレシアス

いままで挙げてきた西洋型の恋愛とは
実は、西洋にあってさえ圧倒的に少数派であり
言ってみれば恋愛というものの精華なのです。
だからこそ「偉大なる情熱(グランドパッション)は
貴族の特権なのだ」(スタンダール)という言葉も生まれます。
日々の生活に追われる者ではできない、不用とも思える
思索にふけることができる者、美しいもの、高貴なものへの
憧れを持つ者、卑しく浅ましいものを憎むことができる者の特権。
そしてパッションである以上、アリサがそうだったように
常に受難の可能性を宿していて・・・。
(マタイ受難曲は、英語ではマタイ・パッション)

ゲーテが「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」で書いたように
「ただ憧れを知る者こそ我を知らめ」なのです。
アリサの苦悩を実感を以って理解できる者は、
確かに憧れを持つ者だったでしょう。

Elly Ameling エリー・アーメリング
Ave Maria アヴェ・マリア(シューベルト)

つまり精神に於いて、志を持たないまま庶民的・大衆的である人は
西洋であれ、東洋であれ、恋愛では後者の
欲望の正当化を必要と感じないタイプが圧倒的多数なのです。
最も美しい、語られるに相応しい恋愛は
精神と知性に於いて貴族的であり、パッション(受難)を
引き受ける覚悟のある者だけのもの。破滅を恐れない者だけのもの。

志であり、憧れと言いますが、
始めは「そんなことはできない」といったレベルの
ちょっとした美意識として発動されてくるのですから
誰しも、多かれ少なかれ持っている資質でしょう。ただ
意識して志を持たない分、支配的でないから
自他ともに、その在り方は容易にわからないけれど。

それはそれでいいのです。誇りに足る充分な価値があります。
普通に恋をして普通に結婚し、普通の幸せを得るためには
そのほうがずっといいのですから。
ですが、ないものねだりを始めると、普通の幸せがほしい
輝かしくも伝説や映画になるような恋愛も欲しいと
美味しいところ取りといった欲張りさんになりかねない。

Gal Costa  ガル・コスタ  Sua Estupidez あなたの愚かさ

できないとは言えないけど、なかなか難しいはず。残念だけど
本来、大衆は安全な場所にいて、そのかぐわしい香りを
遠くから感じるしかない。
或いは、自分たちの想いも伝説のような恋愛だと、
僭称するだけでしかない。近寄らないほうがいいもの
さらに、自分のものにしては危険なモノもあるのです。

幸せはスイスの鳩時計と同じなのです。
単純なものほど壊れにくい。
壊れにくい幸せを望むなら
壊れにくい想いであったほうがいいのです。
それが現在の自分に見合った輝きなのです。
それで充分に幸せではないですか!

신영옥   シン・ヨンオク   동심초  同心草 トンシムチョ
唐(中国)の女流詩人 薛濤(せつ・とう)の4つの春望詞を
韓国語に置き換えて韓国歌曲とした名曲。
花開不同賞 花落不同悲 欲問相思處 花開花落時
攬草結同心 將以遺知音 春愁正斷絶 春鳥復哀吟
風花日將老 佳期猶渺渺 不結同心人 空結同心草
那堪花滿枝 翻作兩相思 玉箸垂朝鏡 春風知不知

そして日本では、
松井今朝子が直木賞受賞直後、読売新聞に書いたように
日本人の恋愛は、恋愛でなくレンアイという
西洋型恋愛と似ていてなにか非なるものに過ぎない・・・。
論理的で、その論理によって建築的なところがある
西洋の恋愛の持つ香気はちょっと難しい。
その代わりに西洋型より淡白で
人と人とがなじみやすいという
それなりの長所があるのでしょうが。
(孤独感がないから、肌になじむのも当然でしょ?)

かつて、読売巨人軍に鳴り物入りでやってきた
一流メジャーリーガーが期待ほどの成績を残せず
去り際、なじめなかった日本の野球を
「something like baseball 野球に似た何か」
と評しました。恋愛も日本流と西洋型と
似ていてなにかが決定的に違っているのでしょう。
明治期、漱石や鴎外らを通して入ってきた
「恋愛」というコンセプトは、いまだ
日本に充分に根付いたとは言うないようです。

Gustav Mahler マーラー「交響曲第5番」 Adagietto
Leonard Bernstein  バーンスタイン 指揮 ウィーン・フィル
マーラーのアルマへのラヴレターです。

さて、アリサはジェロームとの恋愛から
肉化されて生きることの歓びを追放してしまいました。
ポーもジッドも同様に、美しさへの畏れから、
さらに言えば、美しさの変質を厭う余りに、
配偶者との肉体の交わりを拒んだと言えないでしょうか?
 
女性を偶像視する、というのもわかったようで
よくわからない言葉です。これも綺麗ごとの言葉となりかねません。
そんな言葉より、もっと平易に、美しいものを汚したくない気持ち
で、いいのです。マリアージュ・ブランを願ってしまう心根の根本は
そんな素朴な憧れではないでしょうか?

Barbara バルバラ
Ma plus belle histoire d’amour c’est vous
我が麗しき恋物語

そしてその反動というか、結果として
ポーの堕落した生活や、ジッドの同性愛的傾向がある
とは考えられないでしょうか?ジッドは
母なる自然のいたずら caprice de dame nature を含めて
すべての愛のあり方を擁護していますね。
女性は偶像視に値するけど、男性はあくまでも現実。だから
男の肉欲への衝動といった事情など、あまり配慮に値しないという
或いは無意識の意識。

「女の子のからだは水で出来てる。男のからだは泥で出来てる。
ぼくは女の子を見ると、せいせいした気持になるが、
男を見ると、臭くって胸がむかつくんだ」(紅楼夢)
男の体なんて、よくって普通、下手すりゃ泥に過ぎないのですから
どんなに汚したって構わないんです。

Ginamaria Hidalgo ヒナマリア・イダルゴ 
Canción del Adiós 別れの歌

「『僕がアリサしか愛せないことはわかっているじゃあないか・・・』
そして、にわかに無我夢中で、野獣のようにがっしりと両腕に彼女を抱き寄せ
唇と唇を重ねてはげしくキスをした。」

ジェロームには「野獣」のような欲望と衝動がありますが
作者であるジッドはどうだったのでしょう?
家庭生活が危機となるほど同性愛者をやめることは
なかったわけですが、それは生活上の現実に過ぎません。

ジッドは「狭き門」で聖なるもの、憧れ、愛から出て愛を超えるもの、
憧れを持つことで引き裂かれる
肉体と魂のありようを描きたかったのでしょう。
決して平凡で大して輝くこともない現実
(同性愛にどれほど惹かれるとしても)を描くために
ペンを走らせたわけではないでしょう。

そして魂と肉体との間で引き裂かれる自己分裂こそ
恋愛の不可能性の萌芽です。
愛の絶対と永遠を獲得し、と同時に愛の不可能に染まる。
「狭き門」の文学史における位置づけと考えてよい
と思います。

Caetano Veloso カエターノ・ヴェローゾ Sonhos 夢

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