パワーストーンの真実。

舎人独言

健康&グルメに・・・ 翡翠 のパワー。

狭き門 ジッド 1

動画を多く含むので立ちあがりにちょっと時間がかかります。

フランスに Mariage blanc マリアージュ・ブラン
という言葉があります。
白い結婚・婚礼 という意味です。白とは清純。清純な結婚。
それは sexual relaton 性的関係を伴わない結婚ということ。
たとえばアメリカのエドガー・アラン・ポーと従妹のヴァージニア、
フランスではアンドレ・ジッドと従妹のマドレーヌ。
生煮えの言葉で感心しませんが、
いわゆる 処女妻 だったと言われます。

「狭き門」を読むときに一番に気を付けなければいけないポイントは、ジッドが
そんな風に、ごく自然にマリアージュブランに傾いてしまうという体質です。
普通の恋愛ができる人は、その想いが行きつく先の satisfaction of the flesh
肉体で感じる満足 を意識的にせよ無意識にせよ、想定し、当然視するでしょう。
ところが、ジッド本人やアリサは、放っておけば自身が持って生まれた flesh 肉体 が
引き起こす欲望から身を引き、一線を引いてしまいがちなのです。
本能に素直に従っていたほうが誰の目にも自然で、喜びでもあるのに。
アリサは最初、自分がそんなこととは思ってもいなかったわけですが・・・。
実はアリサは自己分裂どころか自己疎外を起こしているのです。
「生きること、それは他人であることだ」と書いたペソア(1888-1935)
の、その言葉のように。

フランソワーズ・アルディ 幸せな恋はない
Il n’y a pas d’amour heureux
「狭き門」1-5止 で挿入されている動画の歌は
日本語訳が、この 舎人独言 の中にあることがあります。

言ってみれば、この「狭き門」の中には、マリアージュ・ブラン、聖なる想い、絶対的な恋、
原罪を免れた汚れなき天上の愛への希求 >(大なり) 肉体的衝動の想い、ほかの異性との
恋愛もあり得るかもしれない恋、肉体ゆえの快楽を通して二人がひとつに融け合うようなエ
クスタシーを追いかける地上の愛への渇望  という、どちらへ転び落ちるかわからない剣が峰
のような数式が存在しています。

もちろんふたつの愛の在り方には vs. という対立があるわけですが、アリサの中では結局、
=(イコール)という両者のつり合いが見つからず > という不等式が勝利を収めてしまいます。
対立の中で悩むからアリサは、なぜ自分は普通の肉欲を肯定する恋愛が受け入れられないのか、
自分の想いをさまざまに検証し、その過程が描かれることでこの小説が成立するわけです。
恋愛にかけては世界一理屈っぽいかもしれないフランスの女性のひとりである
アリサにもこの不等式を解決できず、なんとかジェロームとの結婚という軟着陸に持って
いけずに終わります。なぜ自分がジェロームと結婚できないのか、わからなくなったままです。
その失敗の結果の衰弱死・・・。まさしくアリサの愛の死です。

ジッドやアリサの心と肉体が自然にそうなってしまう心の動き方って、肉体への欲望が
普通に備わっている方は、自分の気持ちと同じくらいに理解できるものでしょうか?
ジッドの、そしてアリサのちょっと不幸だなと思いつつ、それでもどうにもならないその恋愛体質、
性的傾向を頭でっかちに理解しているなら、むしろこのピュアな恋愛小説を誤解するだけかもしれない
と怖れを持つべきなのでは?
そして、そんな問題の大前提としてまず、恋愛・性は年齢によって意味・重みが違う
という客観的事実を認めるほかないのですが。
つまりアリサたちが50代だったら、こんな不幸なんか起きないのです。
アリサたちが性的衝動が最も高まった時、言い換えれば結婚適齢期だったからこその恋愛模様、
そしてその結果なのです。

さらに、これは「ノルウェイの森」でも指摘しましたが、今や現代日本社会では
主流になったかと思われるアメリカ流のプラグマティックな恋愛、もっと端的には
肉食系などと言われるフツーの恋愛になんら疑問を持たない人には、この「狭き門」の
アリサの悩み、苦しみは痛切な痛みを持って読むことはできないのでないかと思われます。
ヨーロッパの中世にまでさかぼる無私無欲の騎士道、「クレーヴの奥方」といった
受肉して生まれたことの苦悩や畏(おそ)れを持たない人には無縁の小説でしょう。
残念なことですが。つまり読者を選ぶ小説ということ。
もちろん、舎人の勝手な「読み」に過ぎないのかもしれないとしても。

「狭き門」の中でショパンのマズルカが演奏されています。
Arturo Benedetti Michelangeli アルトゥーロ・べネネッティ・ミケランジェリ
Chopin – Mazurka op. 33 no. 4 ショパン マズルカ 作品33-4

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「狭き門」のテーマは、神への愛を選ぶか地上の愛を選ぶかだ、などと
よく言われるようですが、深く読めば、神への愛の「神」が果たして神そのものなのか・・・?
ことはそれほど単純な対立ではないようです。
神の存在が日常の中に習慣化して無宗教が普通の日本人は、アリサの余りの傾倒ぶりに
気押されて、この小説はキリストへの信仰が地上の肉体を許容する恋愛をしのぐロマンス
と感じることが多いようですが、実のところそれは普段、日本人が意識しない「神」の存在
に目が眩んでいるから。

小説「狭き門」とは、神からの離脱という当時のフランス社会の大きな潮流にあって
なおも神を棄てきれない小説家が書いた、現代の風潮では世界的にさらに拡大している
「神」に代わる「恋愛」という「脱信仰」、さらに「脱恋愛」への兆しをも視野に入った
王道の、正統の恋愛小説なのです。

会いたくて仕方がないジェロームだけど、会ってはいけないと自己矛盾のアリサ。
どうして、こうなのか?と悩んだでしょう。
自分は分裂してしまっていると思ったでしょう。
でも、まさか、自己疎外されているとまでは思ってはいなかったかもしれない。
妹ジュリエットのありがちで無邪気な、結果として最悪の横恋慕で、アリサはそんなところで
メタ認知活性化のスイッチが入ってしまった。このタイミングでなければ、メタ認知の方向は
別方向へ発揮されて、アリサの結婚への否定へまでは結びつかなかったかもしれないのに。

この小文(1~5止)では、こうした視点で、アリサの苦しみの
その根本構造の解読に努め、しかし、実は日本人は「狭き門」を読み解くことに
向いていないのではないかとの疑問を経て
ではアリサはどのように考え、感じることができたらよかったのか
までを追いかけていきます。

舎人が書いた全文を読み返してみると、最初に日本のレンアイ基本形
を書いたら、「狭き門」と日本人がどれほど隔たった存在なのか、
わかりよかったかもしれない、という恨みが残ります。
恋愛は色ごとを含むけれど、色ごとは恋愛を飲みこむことはできない。
ところが日本人のそれは、恋愛とか(疑似恋愛の)レンアイというより
色ごと に近くて、西洋型の恋愛が持つ精神の構造や建築性は
あまり存在しないわけです。これでは西洋型恋愛のひとつの極致となった
「狭き門」を読むだけの資格があるかどうか、まず、そこを疑ってかかるしかない。
というわけで、日本人の心性が一般的に、いかに西洋型の恋愛と遠いかを
含めて書いています。

話をわかりやすくするために、ここで敢えて書いてしまうなら
西洋型と日本型の違いは、端的に永遠性・絶対性への希求の多寡だろう
と言えるのでしょう。そして人間の身でそんな崇高なものを願った者の受難=自己疎外。
まるで太陽に近づきすぎて羽根を失ってしまったイカロスの失墜。アリサも、そんな風には
思っていないし、いつの間にか運ばれてしまったとく結果論でしょうが。

またこんな大胆というか唐突な極論すら思い浮かびます。
日本人のレンアイは、その人が死んだら、それで終わり。
西洋の上質な恋愛は、その人の死を超えて存在する。
たとえば映画「男とと女」の中の挿入曲 L’amour est plus fort que nous
愛はわたしたちよりずっと強い は、ベッドインまでしながら男と結ばれることが
できない状況を説明する曲なのですが、その愛とは、いろいろ考えられますが
最も単純に、直接的に存在するのは、女と事故で爆死した夫との愛 と考えるのが
普通でしょう。つまりその愛が、今の、ベッドインをして結ばれることを願った男
との結びつき(わたしたち)より、ずっと強いという状況です。
建築的に構築された愛は、その細かくチェックすることが好きなフランスの女性の恋愛観に
支えられて、死をも超越することがあるようです。

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さて、恋そして愛ときたら、敢えてプラトニックと限定しなければ
フツーは性愛を意味します。
そうでなければ人類は滅亡へと進んでしまうわけで
確かに恋愛は性愛であることが前提のように見えたりします。
それでも人間性の一部には、性愛を当然視しない
内側に潜む聖性と獣性の相克だってあります・・・よね?

SIMONE シモーニ  Adoro アドロ

その結果として マリアージュ・ブラン的要素 は
支配的なのか、本人も気づかぬほど微量に過ぎないかはともかく
人間にとって実は誰もが持っているような、普遍的な要素であるように見えます。
七面倒なゴチャゴチャが嫌いな日本人にだってちゃんと、
その素地を見つけることができるのではないでしょうか?
たとえば以下のようなものです。

中勘助の「銀の匙」で、性に目覚める頃の主人公が
憧れにも似た気持ちで友人の姉様を思いつつ、
その官能の華やぎから敢えて引き返す潔癖。
中里恒子の「時雨の記」でも、安易に獣性を自らに許すことを
ためらう初老の男が描かれます。

そして、この「狭き門」の現代的再解釈とも言える側面を持つと思える
村上春樹の「ノルウェイの森」(場所を日本、時間を現代に置き換えた)でも、
この感覚は最初に自殺を遂げるキズキ、そして直子の関係に影を落とし、
その正体を巧みに隠しながら物語全体を展開させる
強いエンジンとなっているようです。
(敢えて禁欲的に自分を処するアリサと、ボノボのヒトヴァージョンとでも
言えそうなワタナベ君と、正反対の物語展開と読めるかもしれませんが
皮相な対照としても、「ノルウェイの森」は「狭き門」の世界を現代日本に
置き換えて再展開させたら・・・という試みのひとつとして読み解くことが
可能と思われます)

既に「ノルウェイの森」で書いているのでここでは詳しく述べませんが
キズキとはキヅキであり、「気付き」なのです。
そうでなくて、どうして耳なじみのないキヅキという苗字である必要があるでしょう?
その彼がなぜ自殺したのでしょうか? 二人のやりとりと葛藤を
聖性と獣性の相克にポイントを置いて想像してみてください。
きっと「気付き」があるはずです。

Charlotte Gainsbourg   シャルロット・ゲンズヴール
L´un part et l´autre reste  一人は立ち去り もう一人は残る

あるいは卑俗と?思える演歌の世界でも、たとえば
北島三郎がこぶしをころっころ回しながら歌う喧嘩辰の歌詞
「殺したいほど惚れてはいたが 指もふれずにわかれたぜ」。

以前も書きましたが、男はつらいよ で、御前様のお嬢さん、冬子が
酔っ払いの千鳥足でこの部分を歌っていました。
指もふれないほどに冬子を崇め、自分の女として略奪などしそうにない彼が
いる。でも略奪してくれないのが焦れったいのか・・・。
寅さん、お嬢さんの意外な 女 に、目を白黒させていましたっけ。

実はアリサの恋愛模様と構造が似ていなくもないようなのですが
ああ見えて都会人らしいシャイさを持つ寅さん。
(寅さん演じる渥美清さんは「人前ではにこにこしてるけど、狂気の
ない奴はダメだ」「孤立していることが大切だ」と見抜いていました。
氏の俳句には確かにほかから屹立している趣がありました)
寅さんってアイコンとしての女は大好き。もう、すぐ一目惚れしちゃう。
ところがいざ実体のある生身の女として現れるようになると、テレてしまう。
自分の欲望が手に負えない。直視できなくて目を逸らすしかないほど「テレ臭い」。

Fauré フォーレ
ラシーヌの賛歌 Cantique de Jean Racine Op 11

「結婚しているなら別よ」と迫ってくれたリリーに対してすら、自分の性欲を、自分に素直に
許してやることができない。だから、寅さん、積極的に出ることができなくなっちゃう。
だから、女性は、自分が好かれていないと思ってしまう。
寅さんを手放すかないと思ってしまう。寅さん、失恋するしかないじゃないですか!
夜、階段を上って寝所へ訪れる気配に、とっさに眠っているふりをした時の石田あゆみ
(わけアリの不幸が似合ってしまう素敵な女優さん)、穏やかな家庭が築けそうな幼馴染の八千草薫、
寅屋までやって来て想いを伝えたかった竹下景子・・・。
寅さん、野獣派虎サンになれたら、きっと結婚できていたでしょう。
だけど、それじゃあ寅さんの物語にならない。
永遠の片思いという万年純情青年が、一番安定した姿の、ハマリ役の寅さん・・・。

アリサも自分の中の自然、欲望という本能に素直になれなかった。
清らかさをまっとうしようとする天使が、目隠しでもするのでしょうか?
自然に逆らったら、そりゃ寅さんだって、アリサだって、フツーの幸せにはなれない・・・。

Nina Simone ニーナ・シモン  That’s All I Want From You

松田聖子の「赤いスイートピー」では、
「半年過ぎても あなたって手も握らない」でしたね。
性におけるためらいは、単に勇気がない
だけではないのですが。

惜しまれながら亡くなった
たかじんも、最後に結婚した女性とはそうした関係を結ぼうとせず
「手を出しておけばよかった」なんて本音とも冗談ともつかない
でも、実際にそんな気持ちもないでもないだろう心境を語っていました。
夜の歓楽街を豪放に闊歩したあの、たかじんが!
単なる潔癖とか、奥手ということではない感覚ということです。

人間には2種類があります。
真っ白な雪景色だからこそ真っ先に自分の足跡をつけたい者。そして
その美しさにおののきのような感動を覚え、
敢えて足跡をつけることにをためらい、避ける者と。
世の中には確かにひねくれ者もいて、小説「ドリアン・グレイの肖像}
では「神聖なものにこそ、触れる価値があるのだよ」といった言説を
弄ぶ得意顔の登場人物が出て来ます。もちろん、この人物は前者。
マリアージュ・ブラン に通底するのは、後者です。

CAMILO SESTO  カミロ・セスト
No Sabes Cuanto Te Quiero  わたしがどんなに愛しているか、君は知らない

ビヨンセやブリトニー・スピアーズが、結婚まではと
そこまで発展する性愛を避けたことは、マリアージュ・ブランの感覚と
共通するところがあると思います。彼女らなりの美意識による
選択ですが、ただマリアージュ・ブラン的傾向とはやっぱり違うかな。
(ブリちゃんの remain a virgin until marriage は実は
嘘だったようですが、それが理想だったことは間違いないようです)

「狭き門」のキーワードは。聖なるもの。あるいは、清らかさ。
言い換えれば、自らの内なる肉欲へのスタンス・・・。
つまり聖性と獣性の相克です。
清らかで美しいものへの揺るがない憧れと
肉体を持つ以上、簡単には否定しがたい欲望に
どうしようもなく引き裂かれてしまう・・・ということ。

その感覚が意味を持つ人間とそうでない人間の2種類があるでしょうが
意味を持つ人間について、みてみましょう。
そんな男性にとっては、女性の中に
犯しがたい美しさと気品をみる者に与えられた感覚です。
逆に女性自身にとっては、さらに
その美しさと気品の完成でしょうか。

ガル・コスタ Gal Costa  アントニコ Antonico

ピュアな、汚れない雪景色への憧れ。
それは、女性によって救済されたいという男性の気持ちの現れかもしれない。
マリアさまのような穢(けが)れを知らない女性の手による救済。

「狭き門」は自伝的要素を取り込んだ
ジッド(ジイド) André Gideの代表作です。
実際、妻のマドレーヌの日記を引用もされて、
その姿がヒロインのアリサに投影されています。
現実には、マドレーヌはいったん拒絶しながら結局
結婚を承諾したのに対し、小説の中のアリサは
至上の愛を完結させるため、死への道を選んでいるかのようです。
それは、まるで緩慢な自殺のよう。
お母さんから目を合わせてもらえず、話しかけてもらえない赤ちゃんが
2年ほどで死亡してしまうのと同じように、ジェローム断ちをしてしまったアリサ。

だから、アリサにとって致命的に意味があったのは
神ではなく、まぎれもなくこの人間界で想いを寄せるジェロームなのです。
神の御許へ近づけることが、主の花嫁となることが、心から
嬉しいなら、いったい衰弱死などするでしょうか?
誤解を恐れずに極言するなら。アリサにとっての宗教はジェロームなのです。
そんなことを書いたら、いまだキリスト教の社会規制が窮屈な
20世紀初頭、ジッドは非難を浴びて小説を書けなくなるでしょう。
だから、ジェロームがわたしの信仰などと、直截な発言を
アリサに語らせたりはしないけれど。

やはり信仰と愛の相克の物語ではなく、愛の2つのあり方の相克なのです。
神は、生身のジェロームを否定するための言い訳というか強弁のような役割に過ぎません。
冒涜のような言かもしれませんが、実体としてはまぎれもなく
アリサにとってジェロームとは、もう一つの神、いや神以上に絶対な神という位置づけ
と理解したほうがわかりやすいかもしれません。

Roberto Carlos  ロベルト・カルロス O Terço  ロザリオ

天上の愛という言い方は、神と直接に結びつく愛
ということでしょうが、体裁が良すぎです。
耳障りのいい言葉のせいで、雰囲気だけでなんとなく納得しかねず
問題がどこにあるかを、はっきりさせない弊害を感じます。
要は、結婚となれば、相手の意向次第で
lust of flesh 肉体を持つがゆえの欲望 肉欲 の承認を
否定できない、そのことがアリサにとっての
一番の問題ではなかったでしょうか?
簡単に言えば、肉欲を自分に許せないのです。

カルヴァン派が支配した時代のスイスでは、火刑が普通に行われましたが
また妊娠のための服も普通に常用されていました。
肝心のところにそれぞれ空きスペースがあります。
生殖のための行為は許されるが、快楽を得てはいけない。
情欲は大罪である、という教えなので。
(ネ、日本人の感覚とは大いに違います^^)

ことほどさようにキリスト教の伝統は、トマス・アクィナス以来、
裸体を卑しいものとし、性的なものを極力排除するわけですが
天上の なんて綺麗ごとでない、
アリサにとっては生身の人間の苦悩だったはずです。
それはアリサなりの「原罪」。
アリサは愚直にも、原罪という意識に真正面から
ぶつかってしまったのではないでしょうか?
要領よくやればいいものを、正面衝突を避けようとしないなんて。

Jose Feliciano  ホセ・フェリシアーノ
La Balada del pianista  ピアニストのバラード

原罪の定義はどうも、あいまいです。一人ひとりの感性・感覚に
委ねられているところがかなりあるようですが
舎人には、原罪とは性そのものに感じられます。
人間としての尊厳を持っているはずなのに
自身をコントロールできない状態におく強烈で執拗な本能。
理性の埒外におびきだし、知性と誇りを失わせかねない誘惑。
肉体ゆえの説明しがたい躍動と歓喜、蠱惑(こわく)。
「想像し、予感していた別の歓び。私の魂がすでに渇望していた歓び。」

そして肉体を持つゆえの畏れと嫌悪。
肉体を持たない天使なら、こんな欲望など持つでしょうか?
少なくとも、天使の欲望は、人間のような形では表出しないでしょう。

ピエール・バルー Pierre Barouh が、フランシス・レイ Francis Lai
の作品を歌っています。
Le Courage d’Aimer   愛する勇気

自らの性を恥ずかしいものと自覚する感覚とは、つまり
ヒトという生き物が、アダムとイヴ以前のような
自然の一員という存在から、あるときは自然に立ち向かい、
克服に動くことができる存在という、自意識という別次元へと
新たなステップを踏んでしまったということです。
その具体的な証拠が、科学の発展であり、また聖性への意識でしょうか。
そそのかされたのは、いいわけに過ぎません。自身の選択で
禁断の木の実をかじった瞬間こそ、聖性と獣性の相克の始まりでした。
その歓びも、苦しみも、自身のもの。
誰のものでもありません。アリサのように。74

Luz Casal ルス  Piensa En Mi  わたしを想って

イチジクかブドウか、その葉で自分たちの肉体の最も性的な部分を
隠すという行為こそ、人類初の知的行為でしょう。
そして「私は、何も言葉では言われないで、
自分が彼を愛しているとは知らないで愛することを望む。
とくに彼に知られることなしに彼を愛したい」
というアリサの言葉は、アダムとイヴがかつて持っていた
無邪気=イノセンスから、なんと遠いことでしょう。

もはや自然の大いなるゆりかごで優しい無意識に抱かれたまま
眠ることは許されない。それが
二人が新しく再発見されるように導かれた
性 という原罪。

アリサとジェロームの会話です。
「私たちは幸福になるために生まれたのではないのよ」
「では幸福以上になにを望むのだろう」
「聖性よ」

Lucio Battisti  ルチオ・バティスティ
Don Giovanni ドン・ジョヴァンニ

sexの語源はラテン語で secco と、読んだことがあります。
切断面 という意味だそうです。アンドロギュノス神話の最終局面で
神によって結びつきを切断された男と男、男と女、女と女。
そして引き離されたゆえに、孤独というヤツが生まれ
better-half を求めて恋の遍歴が始まったのでしょう。

ちなみに、意義深い、意味深長なという意味の significant の sig
断片などの意味を持つ segment の seg は、seccoから派生して
英語の接頭辞となっています。
セグメントって、コンピュータの中で、
みなさん無意識にひんぱんに使っていますね^^

(初期キリスト教のふくよかな頬を持つキリスト像は、中世、
肉をそぎ落とした禁欲的な姿に変わりました。いかにも
求道の苦しみ、克己が相応しいイメージとされたわけです。
受肉 ≒ 性 ですから、肉体を削ったイメージ。
東方教会は、そこまで禁欲的ではありませんね)

Roberto Carlos  ロベルト・カルロス  VOCÊ  君

この「狭き門」を、信仰と愛の相克の物語と捉えるといった
「読み」は、さぁ、どうなんでしょうか?
信仰は、溺れる者にとっては藁以上に有効な助けと
なることがあります。それだけに安易に頼ってはいけないのですが
ともかく絶体絶命のときに支え、安らぎをさえもたらしてくれる
こともあります。

ですが、この物語では信仰はむしろ枝葉であり、
本筋は恋愛物語そのものと読むほうが正解でしょう。
ぶつかり合っているのはアリサの信仰と愛の二つではなく
アリサの中の、一人の普通の女性として夢を見、望ましいと思う愛と
苦しいけれど、アリサが求める、あるべき姿の愛の二つのありようなのですから。

アリサの祈りとは、一般的な
主よ、わたしを御許へ導きたまえ
ではなく
わたしを父を裏切らせた母のような愛から守りたまえ
汚れた欲情からわたしたち二人の愛を守りたまえ
であったはずです。
その帰結として、神の御許への想いがあるとは思います。

Cora Vaucaire コラ・ヴォケール
Heureusement on ne s’aimait pas 愛し合わなくてよかった


Cora Vaucaire “Heureusement on ne s’aimait pas… 投稿者 sylvainsyl

アリサはこの世に生まれるという肉化された自身でありながら、
ジェロームとの恋愛で、受肉に伴う喜びを自身に許しません。
わずかに背中にジェロームの体温を感じることに
官能の酔いを覚えますが、慎みからというより、
恐らく求めるものはそれではないといった感覚から
さらなる展開を望みません。
まぁ、手くらいはつなぎますが、それは親しさの現れでもあるのですから。

いっしょにいることを願い、と同時に
狭き門を二人で抜けることができたらと願いながら、
どうしても結婚へと軟着陸することができませんでした。
「主よ、あなたが私たちに教える道は狭い道でーー
二人が並んで歩いていくことができないほどに狭いのです」
そしてジェロームに対しては、こうです。
「自分自身にもはっきりさせなければいけないのですが。
私は遠くにいる時のほうが、
あなたにもっと強い愛を感じるのです」

Charles Dumont シャルル・デユモン
Demain pourquoi pas   明日は、どうしてダメなの?

はたから見たら禁欲的であろうとした
と見えるかもしれません。
ですが、本人は自分の気持ちに正直に
生き方を選んだに過ぎませんから、過度の努力なんて
案外、必要としていないことでしょう。

「私にとって自分を抑制することは
他の人々が放縦に走るのと同じように自然だった」
「労苦に対して報酬が得られるなどという考えは
生まれのよい魂にとっては侮辱です。
徳はそのような魂にとっては飾りではない。
違うのです。それは魂の美しさのかたちなのです」
アリサは高潔であることを望む魂の欲求に
正直に従うしかなかっただけなのです。

Barbara Georges Moustaki バルバラ  ジョルジュ・ムスタキ
La Dame Brune  ブルネットの婦人

珠の緒よ絶えなば絶えね という至純。
ジェロームを目の前にし、息遣いを感じるほどに近づくことは
官能の酔いにつながるのです。だから官能の昂(たか)ぶりのまま
性愛を受け入れることができす、ジェローム断ちをして命を削り
死を近づけ、受け入れていってしまう。でも
アリサは自身の感覚が目指す理想と、憂き世に生きる現実をうまく整理して
ジェロームとの結婚を選ぶことはできなかったのでしょうか?
「幸福がすぐそこにあり、待ち受けており・・・
手をのばしさえすればつかめるのに・・・」

Carmelo Zappulla   、カルメロ・ザップーラ
Ri Tia   2010年のアルバム Anima から
ナポリやシチリアの方言で歌われているのかなぁ?

疑問のきっかけは妹ジュリエットもジェロームを愛したこと。
自分がジェロームを受け入れるなら、妹が不幸せになる。
たとえ妹が諦め、自分たちの結婚を祝福してくれたとしても
どこかわだかまりがあることでしょう。
無邪気に喜んでくれる、真実の気持ちではないことでしょう。
だからもう、ジェロームとの結婚は、完全とは言えない。
愛の勝利でなんか、ありはしない。

妹の不幸せの上に、自分だけが幸せを築くことなどできない。
妹が不幸せになるような恋愛は聖なるものとは言えはしない。
聖別されるに値しない。そう気づいてしまえば、
ジェロームへの想いをどうすればいいのでしょう。
結婚を願うジェロームと、どう向き合えば・・・?
それでも、こんなにも愛しているのに。

アリサもアリサなりに「女の愛を恐れよ。 この幸福を、
この毒を恐れよ。」(ツルゲーネフ「初恋」)という
中毒症状を示したのです。

願わくば魂の相似こそ互いの資格であらんことを。
なのにアリサはここで揺れてしまった。
母の欲望まみれの生き方も下地にあった。
妹思いでも、利他主義でもないけれど
アリサはまっすぐ、自身の肉欲は否定されるではないか?
と迷ってしまった。
ジェロームこそ、魂の相似形であるジェロームなら
その肉欲を聖別し、幸せな結婚生活がもたらされ得るのに
そんな風には思い至れなかった。そこには神があって
それなのに神を見失った戦(おのの)きがあったことも大きいのだけれど。

映画「男と女」挿入曲 ピエール・バルー & ニコール・クロワジール
L’amour est plus fort que nous 愛はわたしたちより強い

「彼なしで生きなければならないものは、
どれももう何の歓びももたらさない。
私の徳はすべて彼の気に入るためでしかない。それなのに。
彼のそばにいると、自分の徳が萎縮してしまうのを感じる」

たとえジェロームがいなくても貫ける愛。
姿をいつも視界に入れていられる安らかさも、
共に過ごす時間の甘やかさも、そんなものに頼らなくても、
わたしはジェロームを愛しつづけることができるのかも?
この愛が絶対というなら。ジェロームがいなくても
絶対性は損なわれないはず。

Roberto Carlos ロベルト・カルロス
El Día Que Me Quieras  想いの届く日

わたしが本当に絶対の愛をジェロームに抱いているのなら、
ジュリエットに譲ってもいいはず・・・。
それがわたしの徳。有徳の証明。
ジェロームなしに、わたしだけが想っていても、それは
愛のほかに呼びようもない紛れもない愛。そして
「徳を愛と融合させられるような魂はなんとしあわせだろう!」

それでも・・・。

しかし、ジュリエットは、アリサたちの素朴な気持ちを傷つけたことを
自ら罰するように、意に染まない結婚をします。
(狭き門の最後は、そんなにも深く結ばれていた
アリサとジェロームの仲を裂いたジュリエットの涙のシーンで閉じられます)
しかし、現世の愛に生じた堂々巡りのような疑問は、アリサの中で
それでも次第に愛を純化していきます。

和訳は アマリア 難船 のページで。

Amália Rodrigues  アマリア・ロドリゲス  Naufrágio 難船

わたしの愛は何なのでしょう? 
ジェロームが好ましいから愛するのか? 
好ましく感じなくなったら、手の平を返したように
愛さなくなるのか? 
いいえ、好ましいとか素敵とか
彼についての属性などはどうでもいい。
ジェロームその人こそを愛している。
そしてわたしは、ジェロームのためにこそ存在している。
わたしたちは深いところで結ばれている。

それはまるで、
ジョン・ダンのあの詩句のように
この世以前からの縁。
Twice or thrice had I loved thee,
Before I knew thy face or name
二度か三度 わたしはあなたを愛したことがある
あなたの顔や名前を知る以前から

Frank Sinatra
By The Time I Get To Phoenix 恋はフェニックス

「子供だった頃、もうその時分から私は
ジェロームのために美しくありたいと思っていた。
今になってみると私が《完璧》を志したのは
彼のためでしかなかったように思われる。
ところが、この完璧には彼と離れなければ
到達できないとは、おお、わが神よ!」

互いが互いのためにこそ存在している二人なら、
相手がどのような状態であっても別れることはない。
互いに与えられた存在なのだから。まして、少なくとも
自身の想いだけは不変なのだから、ジェロームが
ほかの女性と結婚してさえ、それでも別れではない。
愛を諦め、放棄したことにはならない。

それならば、自分は現世の幸せを捨てても、ジェロームだけでも、
現世の幸せを得て欲しい。
それがわたしの絶対の愛。ジェロームとの永遠の愛。

Michel Berger & Véronique Sanson
ミシェル・ベルジェ & ヴェロニク・サンソン
Seras-tu Là 君がいるだろう

「自分自身にもはっきりさせなければいけないのですが。
私は遠くにいる時のほうが、あなたにもっと強い愛を感じるのです」

アリサの思いは、堂々巡りをしていたことでしょう。
人は意識してか無意識でか、自分にさえ嘘をつきます。
だから正直な自分を見つめるために、何度も何度も繰り返し。
嘘をついていないか、自らを検証台の上に乗せて。
そんな風にして迷いながらも、幸せに手を差し出そうとしないアリサは、
一見、とても強いですね。

でも・・・。わたしは、わたしの愛を
どういう形で実現したらいいのでしょう? 
どうやって二人の愛の絶対性と永遠性を
証明してみせることができましょう?
(間違っていないと言えるのでしょう?)

Barbara バルバラ  Drouot ドゥルオー

ジェロームの想い。
「僕ら二人は進んでいくのだった。
『黙示録』の語る白い衣をまとい、
手に手を取って、同じ目標を目指して・・・」
アリサの想い。
「主よ! 私たち、ジェロームと私は、
あなたに向かって進んでいきます。
互いに相手と共に、互いに相手に牽かれて。
全生涯にわたって二人の巡礼のように歩いていくのです」
「おお、ジェローム! 私はあなたを通して、
その一つ一つを見るのです」

ジッドより少し後のフランスの詩人、Paul Éluard ポール・エリュアール
(1895年12月14日 – 1952年11月18日)はその作品 Une leçon de morale
モラルのレッスン(1949年)の中の Ombres  影 で、次のように書きました。

Nous étions deux à nous chauffer au même feu
Chargé d’amour comme de plomb comme de plumes
Dans la douleur et dans la joie nous n’étions qu’un
Même couleur et même odeur et même saveur
Mêmes passions même repos même équilibre

ぼくたちは2人して同じ火で熱くさせられる者だった
羽のように 鉛のように 愛で充たされ
痛みの中で 喜びの中で ぼくたちはひとつなのだった
同じ色合いで 同じ匂いで 同じ香り
同じ情熱 同じ休息 同じ均衡

「互いに相手と共に、互いに相手に牽かれて。
全生涯にわたって二人の巡礼のように歩いていくのです」
と意識するほどにアリサはジェロームに同じ資質を見出しています。
愛し合う資格は、そんな二人の同質性で確保できているのに、
それだけではまだ足りなくて・・・。

だったら、なにも求めないことにしたら?
肉化されたことの歓びは、母を迷わせた。
わたしとジェロームの間でなら、それはどこまでも誤りではないだろうけど、
その行為は母のようにときに誤りであることは事実かもしれない。
それに、こんなにもの至純な想いに何を加えることができるでしょう?

Benjamin Biolay  バンジャマン・ビオレ
Négatif   ネガティヴ

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