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	<title>青雲舎</title>
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	<description>古代中国とマヤ。２つの文明を彩った翡翠（ひすい）の効果を現代によみがえらせようとしたのが「青雲舎の翡翠マグ」 です。</description>
	<lastBuildDate>Thu, 11 Mar 2010 06:28:01 +0000</lastBuildDate>
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		<title>少しずつ、近くに　un peu plus près…</title>
		<description>ボサノヴァの創始者のひとりと言われるジョアン・ジルベルト。 

気難しくて、変人として知られますが、こんなエピソードがあります。
 



リオに飛んだ日本のライターがインタヴューを試みました。 

始めは心配でしたが、思いのほか盛り上がり、 

ジョアン・ジルベルトも楽しんでくれたようでした。 

別れの挨拶をして一旦は部屋を辞去したのですが、
 
あんまりにも楽しかったので、もう少しと、 

戻って扉をノックしました。 

姿を現したジョアン・ジルベルトは 

「ああ、あなたか。楽しかったけれど、 

一日で知り合うのは少しずつにしたほうがいいと思うんだ」 

という意味のことを言って断ったそうです。 

ただのエピソードでなく、いかにもボサノヴァにふさわしい話として、 

ライター氏に印象深かったのではないでしょうか？ 






この話で思い出すのは、「星の王子さま」のキツネの言葉です。

 


「時間をかけなくちゃ」。キツネは答えました。「まず、キミはボクから少し離れて、草の

上に座るんだ。そんな風にね。ボクは目のはしっこでキミを見るだろうな。だけどキミは

何も言わないんだ。言葉ってヤツが誤解の元サ。で、キミは毎日ちょっとずつ、ボクに

近づいて座るようになるんだ・・・」
 



-Il faut être très patient, répondit le renard. Tu t'assoiras d'abord un peu loin de moi, 

comme ça, dans l'herbe. Je te regarderai du coin de l'oeil et tu ne diras rien. Le langage ...</description>
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	<item>
		<title>孤悲</title>
		<description>「孤悲」って、「恋」を表わす万葉集の当て字のひとつです。
万葉人がどう思っていたのか分かりませんが、
なにやら現代的意味を持っていそうな雰囲気です。

春にあって春を憶います。
もう何年も前のこと。
病床にあった妹は、「桜が間に合うかも知れない」と心待ちにしていました。
満開の花の下、車椅子を押されてわずかな時間の華やぎを堪能した彼女は、
間もなく去っていきました。
次の春はありませんでした。


Pour ne pas vivre seul
孤独に生きないために





歌っているのはクリストフ・ウィレム。
このシャンソンを彼が歌うと、
生きることの恐れ、心の震えが匂いたちます。
傷つきやすい柔らかな心のまま、
この世にひとりぼっちで放り出されて、心細く、頼りなげで・・・。
彼の解釈では「わたしといるあなたも、孤独」あたりで
抑えられない想いが噴出します。


例によって意訳で恐縮です。
しかし、こんな歌詞が流行歌だなんて、フランス文化って、全く！

それに比べて、日本の歌にありがちなのは
「ぼくはずっとキミのそばにいるよ」といった優しさのメッセージです。
でも３年、５年、１０年と続く優しさに育つために、
一度は孤独を突き詰めることをしたほうがいい。
真っ暗な孤独の奥底から生まれ、鍛えられる強さだってあるのだから。
どんなに巧く隠したって、どんなに巧く逃げたって、
実はみんな孤独なのだから。

比べてみると、孤独の成り立ち、質、在り方が
日本とフランスでは違うような気がします。




孤独に生きないために
人は犬を飼う。
バラを育てて暮らす。
或いは十字架とともに生きる。

孤独に生きないために
人は出来事を映画のように仕立てる。
そんな風にして愛する。
思い出を、影を。何であれ。

孤独に生きないために
人は春を待って生きる。
春が行けば、
次の春のために生きる。

孤独に生きないために
わたしはあなたを愛す。
あなたを待つ。
孤独に暮らしているのではない、
孤独なんかじゃないと幻想を求めて。

孤独に生きないために
女の子が女の子と愛し合ったりする。
男の子と結婚する男の子だっている。

孤独に生きないために
そうではない子たちは子供をつくる。
その子供も、すべての子供のように
やっぱり孤独。

孤独に生きないために
人は大聖堂を建てる。
すべての孤独な人々が集う大聖堂を。
そして　ひとつの星をつかまえて放そうとしない。

孤独に生きないために
あなたを愛し、
あなたを待ちながら
わたしは
孤独なんかじゃないと思い込む。

孤独に生きないために
友達をつくろう。
退屈な夜ごとに集まって、
ひとつにつながりあおう。
人はお金、夢、宮殿のために生きている。
だけど　二人用の棺があるわけじゃない。

孤独に生きないために
あなたと暮らすわたし。
あなたといて、わたしは孤独。
わたしといるあなたも、孤独。

孤独に生きないために
人は暮らす。
孤独なんかじゃないって
幻想があるかのように。




オリジナルで創唱したのはダリダ。
恋多き女性と言われた人です。
ひとつの星をつかまえて放そうとしない
　S’accrochent a une etoile
と歌うところで右手を高く掲げて見せます。
孤独に打ちひしがれはしない、という決意表明でしょうか？
終幕、華やかなアレンジの陰で、
孤独は不気味な響きを伴いながら存在感を増します。








ダリダの孤独・・・たくさんの孤悲。
「許してください。人生は耐えられない」との言葉を残して
彼女は自殺を遂げてしまうけれど、それはいつかまた別のお話。 

 </description>
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	<item>
		<title>赤と青または情熱と無情</title>
		<description>フラメンコと闘牛。 
あまりにスペイン的なイメージを体現する女性歌手がいます。 
いつか大晦日のパーフェクTVでスペインのテレビを見たとき、
あきれるほどの長時間（９時間ぐらいはあったかな？）、特別番組が組まれていました。
お読みになると分かると思いますが、なるほど国民的歌手です。 

結婚した男は、国民的スターの闘牛士でした。 
スターとスターの結婚です。国中が祝福したような結婚式でした。 

　　　　　

当時、彼女が歌うフラメンコ歌謡（カンシオン）は、情熱の赤が似合っていたと思います。 
子供たちにも恵まれて絶頂に見えた幸せが、けれど、突然、暗転します。 

勇気ばかりでなく、牛を操る技術にも優れた闘牛士だったのに、
首を振るたちの悪い癖を持つ牛だったのか、あるいは一瞬の気の緩みだったのか、
その角に突かれてしまいます。
華やかな闘牛士の装いは、弔いの経帷子（きょうかたびら）となりました。 

　　　　　



夫に捧げるとして発表された曲です。 
「わたしの空はいつも青い」に泣かされました。 (ちょっと故意の誤訳ですが）

「彼はわたしの人生だった」 
　　　　　


サビの部分です。 
「彼はわたしの人生だった。 
　わたしの春、わたしの朝だった。 
　わたしの空はいつも青くある。 
　わたしの心、わたしの喜び、わたしの言葉であった人よ。 
　そしてある日、彼は行ってしまい、全てが終わり 
　わたしは窓辺でただ待っている」 
　 
　 

この曲では「戻ってきて、戻ってきて、わたしの許にもう一度。あなたが必要なのです」と呼びかけています。 
　　　　　
　　



ハートに黒いヴェールがかけられたジャケットの傑作「傷ついた心」からの曲です。 
「あなたは嘘」 
　　　　

そんな風に見てしまうのがいけないのか、あるいは、
人生と歌を重ね合わせることを狙ったイサベル・パントーハの周辺がいけないのか、
イサベル･パントーハの歌の心のPasion（スペイン語）は
情熱であるより、受難の色彩を帯びて聴こえます。 
Passion（英語）の第一義は、情熱でなく受難ということを、知識としてでなく、実感してしまいます。 


イサベル・パントーハの残りの人生は辛いでしょうね。
つまらない男と結婚するわけにもいきません。 
昨年、チラッとスキャンダルめいたものが思わぬ事件で発覚しましたが、
まぁ、いいじゃないですか。生身の人間なんですから。 
忠臣蔵のような美学を全うしなくてもいいんです、人生は。きっと。 

「愛をわたしに与えて」 
　　　　　 </description>
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	<item>
		<title>イギリスの詩人</title>
		<description>世界は恋愛であふれています。
正確に言えば、恋愛に関する情報でいっぱいです。
音楽を聴いても、テレビを見ても、本を読んでも、映画を観ても、
恋愛、レンアイとやかましいほどです。
　
なのに、世界はいまだに恋愛に餓えていて、
まだ足りないのかとばかりに新しい恋愛物が次々に登場します。
　
それは孤独な人々が、孤独の溝を恋愛で埋めようと試みるかのようです。
ここ舎人独言では、過去の名作と言われる芸術作品から、恋愛の世界を紹介していきます。
恋愛の不可能性が言われる現代でも、何か、参考にしていただけるものがあるかもしれません。
　　　
初めに紹介したいのはイギリスの詩人、ジョン・ダン（John Donne)。
ヘミングウェイの「誰がために鐘はなる」というタイトルが、ジョン・ダンの詩の一節から取られ
ています。シェイクスピアと同時代の人です。
　
エレジーの中の１編から２行を引用します。
　　
Licence my roaving hands,and let them go,
Before,behind,between,above,below.
　
　　さまよう僕の手に君の許しあれ　
　　許されてこそ　二つの手は巡って行く
　　前に、後ろに、間に、上に、下に。
　
とってもインティメイトな雰囲気ですね。なかなか過激でもあります。
ライセンスに重点を置いて訳してみました
でも、「許してください」と言っている割に、女性には厳しい関係のあり方と感じます。
女性はとにかく「許す」ことを明確にすることを要望されます。
　
ブラジルのロベルト・カルロスという歌手に「カヴァルガーダ」
という歌があります。「騎馬行」。ベッド・タイム・ソングです。
その行為を騎馬行にたとえ、「キスを鞭として使い」とか
「星座もわたしたちを見ようと位置を変える」なんて歌われます。
行為は、星座に祝福されます。まさに星菫派です。
サビの部分では「その瞬間　支配していようと　支配されていようと　　
もはや問題ではない」と歌われます。
そう、男女が融合して上下はなく、支配という関係ありません。
　
リルケは「ひとつのバラは　すべてのバラ」と書きました。
「ひとりの女は　すべての女」だと。
今風に言うなら、「千の男・女になって」はどうでしょうか?
「前に、後ろに・・・・」のさまざまな瞬間に、女は千の女になって男の前にある。もちろん。
男も「千の男になって」さまざまに女の前にある。可能性が無限に広がっていきます。
　
行為は欲望によるだけでなく、意識によっても加速されます。
速く、より速く、濃密に、より濃密に。二人のひとつひとつの細胞の核が融合してしまうほどに。
そうやって、わたしも、君も融合した中にあって、どちらが支配しているとかいないとか、
もう大切ではない、というのは　eroticな関係です。
ジョン・ダンもリルケも、 erotic なんですね。
　
ジョン・ダンの詩は、やはりブラジルのカエターノ・ヴェローゾが
歌っています。けれど、音楽としての魅力はいまひとつ。そんな２行を
とてもロマンチックに感じているから歌っていることはわかるけれど

ジョン・ダンのこの詩に合う曲を探してみました。
やはり英国は英国。名前も同じJohn。John Lennon。
ジョン・ダンによって影響を受けていると言われています。
　
　Love is touch, touch is love
　

　
　
ね、うまく響きあうでしょ？
　
　
　
　 </description>
		<link>http://seiunsha-co.com/english_poet/</link>
			</item>
	<item>
		<title>別れて生きるときも　下</title>
		<description>パリは薄汚れているからパリ。
ユトリロの描いたパリは、白い街並が汚れているからこその抒情。
確かに、汚れているからと言って醜悪とはなりません。
ピカピカの１年生も、陰のある大人も、それぞれ在り方が違います。
　
そういえば
フランスの女性の、口のまわりにできるシワが美しい　
とだれかが言っていました。
確かに、人によって、シワも美しさをたたえます。
　
さりげないメロディーが、儚（はかな）さを
心にしみる悲しみを言い当てている
「El amor acaba(恋は終わる）」。
サビで、こんなことを歌っています。
　
時間はひび割れるから
ひびの中に魂があるから
すべて常なるものはないのだから
美しさも衰える。
恋は終わる
　


　

シナトラの「All the way」も、これは１０代では歌えない境地。
酸いも甘いも知った、と言えば陳腐ですが
傷つき、疲れ、薄汚れてしまって、
それでもなお、また人を好きになってしまう。
これからも「ずっと、ず～～っと」、二人が一緒にいたいという願い。
「ALL THE WAY」という言葉に込められた気持ちが、ちょっと感動です。
　
ティーンネイジャーのボーイ・ミーツ・ガールほど激しく、純真で、気軽で
胸がキュンとなるわけではないけれど、違った意味で真剣だし
自分の気持ちを余裕で見ているだけ、ブレたり、倒れたりしません。
ほかの人が何を言おうと、自分の気持ちは変わらない
という安定感に、それだけの根拠があります。
それが、一つの様式として、今度のラヴの美しい在り方になっているようです。
　
ぜひ、シナトラがひとりで歌っている歌唱を聴いてみてください。
youtube では現在、いい音源が見つかりません(大人の事情だから仕方ないですね）。

　

　

払っても払っても心の鏡に塵が積もります。
時を重ね、年齢を重ねれば、心も薄汚れて行きます。
でも、それが美しさにも通じるとしたら
努力がもたらすものでしょうか?
或いは、勝手に成熟するものでしょうか？
　
薄汚れちまっている舎人ですが、
その答えを、いまだ知りません。
だったら、愚直ではあっても誠実に向き合うしかない。
誠実に見つめる、
誠実に想う
誠実に言葉を発する。
誠実であったなら、いつかは見えてくるものがあるのではないか
そんな風に願っています。
　
映画「シェルブールの雨傘」のラストシーン。
本来なら一つであった家族の
初めてで、恐らく最後のふれあいです。
　
若かった恋人たちは、思いを貫けるほどには強くはなかったけれど
そして他愛ない恋物語でしかなかったかもしれないけれど
真摯に、誠実に向き合っていたのだと思います。
　

　
さりげない会話の中に想いがあります。
あふれ出る想いを抑制する思いもあります。
今は、別々の人生で、それぞれに生活があるのですから。
　
それでも、２人にはわかっているはず。
振り返れば、なんと、いとおしい恋愛だったことか。
あんな風に人を愛すことは、もう二度とない。
青春の輝きという言葉で言い尽くせぬ
胸の中の大切ななにかが
あなたと共に失われて、もう返ることはない。
　
互いに誠実に向き合っていたと、まぎれもなく知っているから
祝福して振り返ることができるのでしょう。
　
　
C'est la vie.
　
 それが人生。
　
　
　
　 </description>
		<link>http://seiunsha-co.com/dev3/</link>
			</item>
	<item>
		<title>別れて生きるときも　中</title>
		<description>　プランス・シャルマン(Prince Charment)。魅惑の王子様。
  　いつか白馬で迎えに来て、夢の国へと連れて行ってくれる王子様。
  　そこで、いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしました。
  　そんな憧れを、そのまま現実にしてくれる男性。
　
  　魅惑の王子様って、恋を知り染める女性のための言葉ですね。
  　その段階の男の世界にあるのは、年上の女でしょうか？　
  　ファム・ファタル（Femme Fatal)。運命の女、というのもあるけれど
  　ロマンスの時期がどうにも違うような気がします。
  　或いは、８０歳代の女性にも魅惑の王子様は存在するかも知れない。
  　女にはいつも初恋よなどと、今、思いついたけれど、
  　どこかで聞いたような言葉が浮かんでしまいます。
　
  　それが本当に初めての男性であるなら、その行為は
  　なおさら大切な意味を持つと思うのです。
  　先の「贈る言葉」では、男性主人公こそ、
  　プランス・シャルマンとならなければいけなかったけれど・・・。

　  ブリトニー・スピアーズは、「結婚するまではしない」と公言していましたよね。
  　そうした行為は、自分が愛していて、一生を共にしたい男とだけ。
　  自分を本当にわかってくれて、一生、愛し続けてくれる人とだけ。
　
　  　
  　それって、胸がキュンとする感情。
  　単純だけど、かけがえがなくて
  　忘れてはいけない感覚です。
  　できれば、そうあってほしい。
  　それで一生が幸せで、なんの文句もありません。
　
  ...</description>
		<link>http://seiunsha-co.com/dev2/</link>
			</item>
	<item>
		<title>別れて生きるときも　上</title>
		<description>柴田翔という作家がいます。
代表作は「されどわれらが日々」でしょうが
この「贈る言葉」も、少し理屈っぽいけれど
初めての性体験を持つことになる恋愛を描いて
印象深いものがあります。

「だって、女なんて、みんな、それを待つために、生れてきたようなもんだものね」
　
ある脇役の女性の言葉として描かれています。
もし、そうなら、男としてはちょっと、たじたじとなりますね。
それが、女性なのでしょうか？
　
この作品の中で、男性主人公は
「いつも思いが自分の心の中へ深く戻って行く他はない人間の持つ、
あの一種沈んだ視線」を持つと思われる女性と出逢い、
恋愛と呼んでいいような関係となります。
　
「君も、ぼくが何故いけないのかと問えば、それ以上、言葉で逆らおうとせず、
ただ、前にも増して激しい接吻と抱擁で応えるだけだった。
だが、君は、ぼくが最後にもう一度、では、いいね、と問うと、
必ず、頭を横に振った。ぼくの手が伸びると、身体を堅くして、
応じようとはしなかった。そして、ぼくは、如何なる方法によっても、
君の覚めた意識が自覚している以外のことを、君から得ようとはするまいと
決心していた」
　
この人とでなければいけない結びつき。自覚的なsex。快楽という
わけのわからないものに流されてはいけない。自身の性を、自身で選び取ることを課すこと。
それこそ、犬や猫の発情とは違う、人間の性であるべきだ。
恋愛や欲望にあっても、明晰であろうと努力すること。
君こそ、ぼくと同じように明晰であろうとしてほしい。
それだからこそ、君でなければいけないのだから。
それが、君とぼくという、ひとつの関係の証明なのだから。
　
現代ほどのフリーセックスの時代ではありません。
世代が違うと言ってしまえば、それはそうです。
ですが、それでは大切なものを見落とします。
問題は、人間としての在り方、です。
それが、恋愛や eros の場に於いて、端的と言ってよいほどに表出されてしまうから
恋愛論は人間理解に有効なのだと、思っています。
　
けれども、なんと無惨なことでしょう。これほどに意識的に選んだ性によってすら
特に、女性は傷ついてしまいます。
　
「私が、始めて人を想ったのは、中学二年の時、相手は一級上の男の子だったの。
私、本当に、一度優しく笑いかけてもらうためになら、死んでもいいと思ったわ。
その人は、そんな私になんか気づかないで、さっさと卒業してしまった。
私は、とても悲しかったけれども、でも、こんなに人を想えるなんて、
女の子であるってことは、何て素晴しいことなんだろうと、
何の苦味も混えずに、自然に思うことができたわ----」
　
この一方の主人公である女子学生は、あれほどこだわって、慎重に選ぼうとしたのに、
性によってつまずき、再び、このように人を想うことはできないことでしょう。
　
やがて会わなくなって翌年の十一月。一度だけ、男は、女子学生とすれ違い、衝撃を受けます。
　
「ぼくの心を抉ったのはそんなことではなくて、君の姿に見えた、
ある崩壊の印象だった。例えば、そうした化粧を含めて、
君のすべてに浮き出していた何か内的な不安定さ、
君の中で何かが無慙に崩れてしまっているという印象」
　
お前が加害者なのだ、と男に向かって言うのは簡単ですが、それでは
二人が、いや、男が、なのかもしれないけれど、
欲望においても明晰であろうとしたことが分かっていないのではないでしょうか。
明晰であるとは、イコールの関係、自由で、どちらに上下があるわけでなく
支配でも被支配でもなかったはず。そうあろうと、努めたはずだったのですから。
もちろん、男の側に当座の傷が少ない分、
（実際は、永続的な致命傷を負うようです。生きながら死んでいるような致命傷）
すまないことをした、という気持ちはあるでしょう。
その気持ちが、また、傲慢であると知るから、言葉には出せないけれども。
　
女子学生は見合いをし、ニューヨークへ先に赴任した商社員と結婚します。
　
深読みをすれば、
再び出逢うことは可能かもしれない、
それを時にまかせてみよう、
あれ程に自覚的に選び取ろうとして無惨なら、
自覚など介在しない時間の流れに任せてもいいかもしれない、
そんな風に男は想い、待っていたかもしれない。
　
でも、相手の結婚が決まり、いよいよ別れが間違いないものと知れれば
どんな言葉を、どんな想いを寄せることができるのか。
「元気でしあわせに」などと、わけしり顔で、そんな言葉が口をついて出るわけはない。
　
そうやって、手紙なり、電話で告げたとして、なんと傲慢な言葉であることか。
　
「贈る言葉」とは、
別れて生きることを選んだ者へ、
再び生まれ、もう一度出逢いなおしても同じように生きてしまうだろう
どうしようもない青春を分かち合った者同士であったと確認し、
心の中で告げる　感謝と悔しみ、痛み　なのでしょう。
　
　
　 </description>
		<link>http://seiunsha-co.com/dev1/</link>
			</item>
	<item>
		<title>真摯な者たちへ</title>
		<description>?

音楽、映画、本、テレビ。
　
どこにも「恋愛」があふれています。
　
現代の日本は恋愛への意識が過剰です。
　
本当にたくさんの人が恋愛に関心を持っている。
　
占いや相談・・・。
　
そんなほとんどの方は、自分に自信がなくなって、ほかの人にアドヴァイスを求めているのです、きっと。
　
だから、実態は、恋愛に自分を見失いがちな方が多いのでしょうね。
　
　
あのね、恋愛って、自分の想いが大切でしょ？
　
好き同士でいるっていううれしさも、
　
ダメになりそうっていう悩みも
　
別れてしまってからの辛さも、
　
全部、自分の感情ですよね。
　
　
　
「舎人独言」では、
　
自分の気持ちを大切にする方のために
　
少しでも参考になるかもしれないなって思って
　
いろいろなエピソードをエッセー風に紹介していきます。
　
　
　
恋愛でも何でも
　
真摯（しんし）に生きようとしている方を応援しています。
　
　
　
舎人主人
　
　
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