パワーストーンの真実。

舎人独言

健康&グルメに・・・ 翡翠 のパワー。

ボブ・ディラン 和訳 ラブ・マイナス・ゼロ 解読 盗作説

この曲、いい曲だと思うんだけど、案外、ベスト盤なんかに入ってないんでやんの!
ま、こっちのセンスがまともと思って、そんな選曲をイモだと思うんだけど^^
単語の解説や寓意、翻訳での留意点は歌詞の翻訳の下で。
いろいろ仕掛けられているようです、

Los Angeles 1997

The Walker Brothers

アトピーや乾燥肌など肌トラブルでかゆい方の約70%はかゆみが消えます。
ステロイドで効果がない方を含めてです。
で、魔法の水 とよく言われます。違います。
「宇宙」とか「人体」と同じように、現代の科学がまだ追いついていないだけ。
ヒスイウォーターは新しい技術として注目されている、太陽光と同じマイクロ波や
テラヘルツ波を生かした水。舎人が約20年も飲み続けている安全で美味しい品格の水です。。
かゆくて眠れない方のヒスイウォーターリポート

青雲舎(株)の翻訳を信じるなら翡翠マグも信じてくださいネ。
明治時代の人には電子レンジが信じられないようなものですが、
誰もディスっていないでショ?^^ ちょっとしたキセキなのです。
味わい・お茶・お酒・味噌汁などで試していらっしゃる方のヒスイウォーターリポート

  

「風に吹かれて」の歌詞を買い取ったというウワサや
ノーベル賞受賞を巡る騒動のあれこれが上部にあります。
ラヴ・マイナス・ゼロの翻訳や解読は、3つ目の動画の下からです。
ごめんなさい。

ノーベル文学書授賞というボブ・ディランの
暗喩に富んだ素晴らしい Love minus zero/no limit (上の動画)の翻訳と
その世界の解読に挑んだページです。が、その前にーー。
ディランの代表曲「風に吹かれて」に盗作説(歌詞の買取))をご存知でしょうか?
英語の関連ネット記事は案外、簡単に見つかるのですが、日本では舎人独言だけが
紹介しているようです。

ディランが沈黙を破って「受賞は素晴らしい」と、歓迎の意思を表したそうです。
選考委員会に「傲慢だ」と非難された挙句の歓迎の意思の表明。
周囲の説得があったかもしれませんが、なぜ、今更?
そして結局、授賞式への出席しないという手紙。理由は「先約があるから」。
それが理由なら、委員会がコンタクトできない困惑に対して、サッサと
不出席を通知すればいいだけ。それなのに、こんなに遅れての態度表明だから
人をバカにしているのも程があるのでは?
人間は言葉じゃない。行動で評価されるのです。
反戦をいくら歌っても、なにもしないのでは反戦を語ったことにならない。
同様にボブ・ディランはその行動によって、70歳を超えて未成熟な人間だ
と正体をさらしたようなものではないでしょうか?

授賞に対して、言いたいことがあったのかもしれない。
たとえば(たとえば、ですよ。真偽はわかりません)
これまで何回もノミネートしておいて、なんで今更なんだよ?! 
俺は俺で世界で唯一(誰だってですが)で、ボブ・ディランだ(唯一です)。
誰かの次なんてことはないんだ。今ごろになって、俺はいったい何番目って
評価なんだ? 面白くないぜ! ホイホイともらって、ニコっと笑って
サンキューなんて、簡単に言えるもんか!!!
なんてこともあるかもしれない。気持ちはちょっとわかる。
ですが、それじゃあ、スネ男ですね。
推薦してくれる人、授賞してくれる人への思いに
まるっきり配慮できないということなの?
ま、スネてしまって受賞ウザいってネグレクトしたら、周りはなだめてくれて、
俺の自尊心は満足した。じゃあ、受け取ってやるか・・・だったりしてネ^^
(この部分は仮定の話です)

授賞拒否なら表面的なもの、世俗的なものへのプロテストの姿勢の
表れかもしれない。
今ごろになっての受賞受諾って、こんな一貫しないフニャフニャな態度って結局、
ガキじゃん! てことになりはしないでしょうか? 
日本人の美意識なら潔くないってことです。
ユダヤ人的したたかさなら、そうかもしれない。
日本の常識は世界の常識ならず、なのかも知れない。

授賞式には出席せず、女性歌手がディランのメッセージを読み上げ
代わりに受け取りましたが、「受賞という驚きのニュースを知り、
それを受け止めるのにしばらく時間が必要でした。」はいまさらなウソでしょう。
受賞の発表直後に適切なコメントができないなら、それこそ
「受け止めるのにしばらく時間が必要です」と
コメントを出し、「ありがたく受賞する」
と受賞する意思を明らかにすればいいだけです。
本当はあっちもこっちも欲しいだけ。
身勝手と嘘は、歌の世界の価値を下げるでしょうに。

真面目でまっすぐで、清く明るい心を以って良しとする日本人は、
アーティストに、特にディランのようなカリスマには、ある種の人間的完成
を見てしまいがちです。
その意味では、彼の今更、受賞を歓迎する態度に、失意を覚えるのは、
ディランから見れば
そいつはお前さんたちの勝手。いいファンだけど、あんたたちはあんたたち、
俺は俺、なのかもしれない。

それでもディランの受賞を是(ぜ)としますが、どうも日本人の限界なのか、
ディランというアーティストの人間性に対する評価は マイナス・ゼロ 
とはいきません。

風に吹かれて に戻ります。
メロディ自体は、No More Auction Block という黒人の slave song で、
ディラン自身、カーター・ファミリーのレコードで覚え、10分で歌詞をつけた、
と語っています。問題はその歌詞です。ディランの作風は、
自身の純粋オリジナルに加え、感性のままに選択したものをパスティーシュの
ようにつなげて歌の世界を創り上げるといったものです。そんなこともあって
フォーク歌手仲間のジョニ・ミッチェルも「He’s a plagiarist(彼は盗作者)」
「 Everything about Bob is a deception(ボブについてはすべてが欺瞞)」
と断定しちゃうわけですが。

盗作説とは、ニュージャージーの高校生、Lorre Wyatt から1000ドルで
買った、というものです。
ディラン自身、数々のインタビューで否定してきたし、ワイアットは
ノーコメントという立場らしいのですが、例によって、契約で話すことを
禁じられているとの説もあります。
(たとえ買い取ったとしても、勝手に黙ってパクるより、よっぽど上等です)
レコーディングして3週間後の1962年7月30日まで発表しなかったのは、
盗作を防ぎたいミュージシャンとしては異例と言われたら、
確かにナゾの行動ではあるわけで。

しかし当時のアメリカと全世界のさまざまがディランへと流れ込み、
ディランが鮮やかに自身の姿に体現してみせたという功績は、総じてみれば、
変わりません。
フォークソングだけでなく、当時の思想、風俗ほか、時代の象徴のような存在で、
日本にも影響が大きかったのです。
ともかく、選考委員会で確認した結果の間違いないシロ判定と信じたい
わけですが、そんなディランの作風が授賞を受諾するのか、しないのか、
意思を明らかにしない背景にあるのかもしれません。署名ソングとも言うべき
 Blowin’ in the Wind のコンセプトが自分のものでないとしたら、果たして
文学賞に値するのか? 受賞する側のディラン自身にそんな違和感が
あるのかもしれず、授章側も再確認が必要でしょう。

しかし、あの歌詞で「どれだけの道を歩かなければいけないのか?」という
ディランの問いかけに、面白い回答がありました。時のローマ教皇からです。
「ひとつだ。神の道だ」。信仰を持つ人には敵いませんネ。
これでバチカンは一本、取った感じだね。(そんなに簡単じゃないけど
神の道にいる人には、それが事実なんでしょう)

ともかくノーベル賞授賞の発表で、ボブ・ディラン Bob Dylan の評価が
上がるんでしょう。
すでにCDやら本が売れまくっているそうですから。
だけど授賞されようとされまいと、ディランの過去の作品が今更変わるはずがない。
ノーベル賞という色眼鏡のせいで作品の価値が受賞後、変更されるなら、
おかしな話です。
単なるビジネス利用のためのブランディングなら、ディランは心の底では
ケイベツじゃないかな? 
「Nobel Prize さまだゾ」なんて、政治にも恋愛にも既成の価値観に
ラディカルにプロテストしていた若い日のディランが、権威ぶるはずがない。
(今回の「ラヴ・マイナス・ゼロ」の歌詞を見ても、安っぽいレンアイは
バカにされています)
ただ大人の対応として、受賞したら、自分がしてきたことを
もっとポジティヴに受け取ってもらえるという判断はあると思うけどネ。

敢えて事挙げさせていただきましたが、ディランの歌世界の全体像は
授賞に値すると思います。
あのメロディに、この歌のコンセプトを当てはめて・・・と、 
Blowin’ in the Wind をつくったというだけでも大したものです。
コロンブスの新大陸到達みたいなもので、彼よりもずっと以前に
スカンジナヴィアのヴァイキングらが北米大陸北部で住居後を残したように、
その後に何も残さなかった、大きなものを残したという、その後の影響こそが
本来の意味=業績、と選考委員会が判断したとしても、それは一理も二理
もあることでしょう。

ノーベル賞受賞を持ち上げて大絶賛し、後になって、もしも、もしもの
仮定の話ですよ、たとえばワイアットの死後、やはり買いとったものと
わかったとしたら、その時、大衆は手の平を返し、鬼の首を獲ったかのように
失望と非難を大声でもって激しく論難する・・・。
舎人は、そのような態度を好みません。自分の耳とハートで判断できないことを
まず自身が反省すべきなのですから。従って、舎人独言の立場はこうです。

Blowin’ in the Wind は間違いない名曲のひとつだ。しかし
舎人独言では翻訳をしない。そういうことです。
(ところで授賞と受賞の違いに気づきました?授ける側と受ける側の違いですヨ)

では、Love minus zero/no limit です。

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歌詞に登場するヴァレンタインとか、禅の影響など翻訳の説明もしています。
ディラン流で結構奥が深いんです、この歌は。まだ全貌がつかめない^^:
この歌の世界を少しでも理解するために、お時間があれば・・・。
また引き算と割り算について、自分なりの解釈を提出しています。

ぼくの恋人のことだよ  
彼女が話すのは さながら沈黙なんだ
理想(に拘る)とか暴力的なところはないさ
彼女は言わなくてもいい ほかにつきあっている人はいないなんて
それでなくったって あの娘(こ)は本物なんだ
まるで氷のように 炎のようにね
みんな バラを持って来ちゃって
時間決めして約束をする
ぼくの恋人のあの娘は 笑うんだ
まるで花のようにね
愛のメッセージでは 彼女の気持ちを買い取れないさ

10セントストアやバス停で
人々は事の次第を語る
書を読み 引用を繰り返し 
結論が書かれるのは壁の上だ 
未来を語る者もいる 
ぼくの恋人の彼女は 物柔らかに話す 
あの娘にはわかっている 
失敗ほどの成功などありはしない そして 
その失敗は成功などでは全くないのだ  

マントと短剣が垂れ下がっている   
秘密厳守ってことだ 
騎乗者たち(ホースメン)の儀式で 
マダムたちはキャンドルを灯す 
ポーンにだって恨みがあるはず 
マッチ棒の像は互いに崩れかかる 
ぼくの恋人はウィンクをする 彼女は煩わされないんだ 
言い争ったり 判定するには 余りに多くを知りすぎている 

架け橋は真夜中に震える 
田舎の医者はうろつく 
銀行家たちの姪は 賢者の贈り物を 
待ち望みながら 完璧を目指す 
風はハンマーのように吼える 
夜は 寒さを吹き込むうえに雨だ 
ぼくの恋人のあの娘は さながらある種の大烏(おおがらす)だ
ぼくの窓辺で 折れた翼で 

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    舎人独言には
    ★エロスに変容するバラの寓意
    ★ノートルダム大聖堂の聖なる秘数
    ★オパキャマラドの風景
    ★映画「華麗なる賭け」チェスシーンのセクシーの秘密
    ★名盤「クリムゾン・キングの宮殿」の実在のモデル発見
    ★映画「男と女」サンバ・サラヴァの謎

    といった解読シリーズがあります。

ボブ・ディランが、最初の妻となる 
Sara Lowndes に捧げたLove minus zero/no limit。
Love Minus Zero over No Limit と読みます。

サラは当時、禅に凝っていて、その影響から
氷と炎など対立するものを合一するイメージを
この曲に反映させている、と言われます。
サラは結局、12年間の結婚生活で4人の
子供をもうけています。

silence と violence、 hours と flowers、 stations と situations
Dangles と candles、 another と brother、 trembles と rambles
が韻を踏んでいるのは明白ですが、翻訳では配慮できませんでした。

People carry roses の carry
Valentines can’t buy her の buy
といった言葉の選び方に、
そんなの、所詮、安っぽい気持ちさ
といったボブ・ディランの俗っぽさを厭う
見方を感じます。

ヴァレンタイン は、何かに対する
愛情表現の芸術作品、メッセージ、エッセイなどのこと。
ネット上では2014年7月7日現在、お一人が同様の解釈をしているようです。
舎人の古い辞書には「Cupidを著した絵や感傷的な詩句で飾ったカード
その他の贈り物(以前、St. Valentine Day にしばしば匿名で異性に送った。
ヴァレンタインデーに選んで贈り物などをする相手の女の子。
一般に恋人(sweetheart)」とあります。

Draw conclusions on the wall ああだこうだ言い合っても、しょせん、
その行き着いたところは壁に描かれる落書きのようなもの とも取れます。
またせっかくの結論なのに、壁の上に書かれるしかないという、
正当な発表の機会が与えられない無念を表現しているとも受け取れます。
conclusions は普通、結論とか最終パート、結論、合意の意味の複数形です。
と同時に、judgement の意味もあります。判定、審判ですね。
審判という意味で、下のウィキペディア関連の情報を試してみてください。
ディランは平易な言葉で語るから、身近なことと思われるけれど
遥かかなたからの言葉などといった指摘も英語の記事にはあります。
この conclusions もそんな両義性の解釈が試みられるべきかもしれません。
そのほうが確かに、世相にはキツい一撃とはなります。
一般大衆はアコースティックギターからエレキギターに変えたディランに
ブーイングをかましたものナ。そんな大衆なんか、簡単に信じられるものか
ってディランは思うかもね。(日本ではフォークの神様といわれた岡林信康
が日比谷のコンサートで同じ目にあっています。石も飛んできたそうです。
投げた一人が後の音楽仲間(有名人)で、自分の不明を恥じていたようです)

ウィキペディア(英語版)では、壁に書かれた conclusions について、
聖書のダニエル書を思い起こさせると記述されています。
奢れるもの久しからず、といった以下の内容です。

日本のウィキペディアの「ベルシャザル」の項に、新バビロニア帝国内の
カルデアの王であるベルシャザルが宴会を開いていたとき、突然、人間の手が
表れ、解読不明の文字を書いた。それは”MENE MENE TEKEL UPHARSIN”
というもの。誰も読めないので神官長のダニエルなら読めるだろうと呼ばれ、
彼が読み解いた。それは神への不敬のために帝国が滅びるというもので、
「メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン」のメネは数えるの意、あなたの治世を
数えたてそれを終えた。テケルは測るの意、あなたは秤にかけられ不足である
と判定された。パルシンは分けるの意、あなたの王国がメディアとペルシアに
分けられる事を意味する。」。
ディランはユダヤ人で、当然ベルシャザルの父であるネブカドネザル王が
ユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人がバビロン捕囚という苦難を経験したことは
承知しているはずです。なるほどネ。

The cloak and dagger dangles 人または機関が
重要な秘密を守ろうとする行動のこと。
この意味での解釈は2014年7月7日現在、弊社のほかにはないようです。
真似をしたと思われるのはシャクです。ちゃんと記録をつけておきます。

Madams light the candles 女性はキャンドルがお好きです。
仄暗い情炎はひそやかで。 

Horse は、雌と交尾する、なぶる、酷使する という意味もあります。
既に紹介していますロベルト・カルロスの「騎馬行 Cavalgada」のように
その行為を乗馬にたとえることも、やはりあります。
Horsemen はここでは、ただの騎手ではないでしょう。
これも、ほかの方とは違う解釈ですが。

ポーン チェスの駒で、将棋の歩に相当。言ってみれば庶民でしょうか。

Statues made of matchsticks
Crumble into one another
マッチは 好一対とか地位・財産を考慮したうえでの結婚相手 
という意味もあります。
ホースにしろ、ポーンにしろ、マッチにしろ、こうした意味が
暗喩として立ち上って来てはいないでしょうか?
しかしウィキペディアでは、マッチ棒の像について
聖書のダニエル書との関連が指摘されています。つまり新バビロニア帝国の
ネブカドネザル王が、それがもみ殻のように崩れるのを見るためだけに
貴金属でできた像を造ったというエピソードです。・・・なるほど。

The Gifts of the Wise Men(賢者の贈り物)  は、キリスト教で、
神の御子であるイエス誕生を寿ぐ東方の三賢人(博士)の贈り物のこと。

カラス は、ポーの出世作「大鴉(オオカラス)」のイメージを借りたとの説があります。
端的に死の象徴とする意見もあります。
この歌詞では、氷と炎とか対立するものが彼女の属性として表現されています。
ということで、彼女の清らかで、輝かしい生を暗示するために、
敢えて不気味な存在のイメージを対置しているのかも知れない。
うまくいっている時、そばにいてほしいと願うのは当たり前ですが、
うまくいっていないときでも、彼女にいてほしい
ぼくの許を離れることはないだろう、という意味かもしれません。

There’s no success like failure, and failure’s no success at all
この Love minus zero/No limit で最も有名なフレーズ。
英語圏ではたびたび引用されることがあるようです。
月からの奇跡的生還を果たし
最も成功した失敗 a successful failure と呼ばれた
アポロ13号のミッションは、ではどうなるのでしょうね?
ディランは5年ほど前に書いていますから、無関係ですけど。

Not success ではなく no success 
となっている理由は何なのでしょうか?
前の文章の no と正対させたいから? 
no success は、より明確に success を捉え
そのsuccess が否定されているといった違いを感じます。
単なる口語表現かもしれませんが。

Make promises by the hours
hours という複数形になると勤務時間や生活の時間を表し、
カトリックではvesper(晩課)など1日7回、
祈りを捧げるための時課を意味する。
この歌の約束は、約束は約束でも、
自分の都合や約束事に縛られた程度の約束
という気持ちがこめられているかもしれません。

bridge はあちらと、こちらをつなぐもの。
一方が男で、一方が女であるとしたら
架け橋とは何なのでしょう。
その橋が夜中に震えるとしたら・・・^^

My love she’s like some raven
最後をしめくくる最後の行のひとつ前。
raven は、エドガー・アラン・ポーの代表作
Raven のイメージでしょうか。ポーにコカイン中毒による
死の影が忍び寄る頃に書かれており、raven(大烏)は
Nevermore(再びは決してない)を繰り返す不吉な鳥。
つまり、そんな不吉な大ガラスであっても、羽が折れてるから
自由に動き回れない、無害な状態ではあるわけで。

この Love minus zero/No limit という歌で最大の謎は
minus zero/No limit ではないでしょうか?
どういう意味なのか、ネット上で
解釈を示している方はあまり見えないのですが・・・。
でも、その前に。

日本の甲斐バンドに ラブ・マイナス・ゼロ というタイトルで
ヒット曲があるそうです。甲斐バンドは有名ですが。
インスパイアされたのでしょうか?

LOVE MINUS ZERO
君から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

ボブ・ディランとはかなり違う ラブ・マイナス・ゼロ のようです。

首をひねるしかなかったチュー坊のころから
ずっとひっかかっていましたが、結局
ボブ・ディランの Love Minus Zero は、
案外、簡単な、卑近なことではないでしょうか?

あるものを選択して取るということは、
ほかのものを放棄するということだってことは
人生で結構、あるでしょ? 

たとえば、結婚は人生の墓場だ って言われます。
1人の女性 or 男性 を選んで結婚することは、
ほかの女性 or 男性 との可能性を放棄することとイコールです。

それに結婚という幸せって、それまでは
お金とか時間とか、一人で気ままに使えていたのに
もうできなくなるってことですよね?
結婚することって、マイナス要素だって、いっぱいじゃないですか。
Love minus many things ってこと、現実ではかなりあるんです。

でも、ボブ・ディランは、この愛は
マイナスの要素がゼロだって言っているのではないでしょうか?
さらに、/No limit です。
分母に No limit 限りなさ を持ってきても
少しも価値が変わることのない Love。
無限大は Infinity ですが
No limit のほうが具体的なイメージです。

プラスも、掛け算も出てこないのが
この歌の愛の数学の玄妙さです。
至上の愛なら、そこからさらに何を足すことができるでしょう?
何を掛け算することができるでしょう?

でも、至上の愛にだって、論理上、引き算ならありえます。
割り算だって、そんな事態が起きて、悲しいことに
至上の愛が崩れていくことがあるかもしれない。
ですが引き算はもちろん、無限大で割り算しても
どこで、どう計算をしても減じることのない
変わらない僕たちのLove なんだ
と、ボブ・ディランは言いたいのではないでしょうか?
(その時の気持ちは、でしょう。現実では、二人は離婚していますね。
ディランは傷心を作品であらわにしています)
ひとつの解読例に過ぎません。
間違っていたら、ごめんなさい。

実は一番によく聴いたのは
ウォーカー・ブラザーズのパフォーマンスです。
なんでマイナス・ゼロなんだ? と首をひねりながらも
折に触れて People carry roses というフレーズが
フッと頭の中に浮かびました。
何よりメロディのせいですが.

美人だからといって、みんなと同じように
バラを持っていき、列をつくるなんて
イヤです。
そこまで明確ではなかったけれど
自分にとって唯一の女性であるなら、彼女にとっても
唯一の男性である自分として見てほしい、
と、自信も根拠もないくせに
己の正統性を張したかったのでしょう。

メロディラインの美しさ、想いの敬虔さをよく表現しているジュディ・コリンズ Judy Collins
アレンジが最高に素晴らしいロッド・スチュワート Rod Stewart
歌詞が示す意味が強く、深く感じられたウォーカー・ブラザーズ The Wal
ker Brothers
さすがに歌の世界の迫力を感じるボブ・ディラン Bob Dylan
トラディショナルのようにも聞かせてしまうフォークの女王、ジョーン・バエズ Joan Baez
ポップで聴きよいリッキー・ネルソン Ricky Nelson
いろんな在り方ができる Love minus zero/ no limit です。

特にロッド・スチュワートなんか、とても格調が高くなって
逝ってしまったダイアナ妃を彩るのにピッタリです。
この歌、もともと、それほどの格調はあると思います。

Eliza Gilkyson エリザ・ギルキーソン
テキサスっぽいところのあるフォーク歌手だそうです。

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