パワーストーンの真実。

舎人独言

健康&グルメに・・・ 翡翠 のパワー。

ノルウェイの森 下 読み方 祝祭

前ページ ノルウェイの森 読解 キズキは気づき 上 からの続きです。

いや、それともキズキの中の直子への愛では
雪の景色の美しさを損なってはならない
といった美意識がその底に横たわっていたのでしょうか?
そのキズキ側の要因も大きくはないか?
雪に埋もれて、この上もなく美しい庭園。
でも、いずれ雪は融けてしまうもの。その途中で
まだらになって、あまり美しくはなくなります。
第一、嬉しくなった誰かが、駈けずり回って茶色い足跡を
そこかしこにつけて回れば、やっぱり綺麗ではなくなります。

どうせ、美しくなくなるなら、誰かの前に自分が・・・
と、自分が足跡をつけて回ることだって、あり得ることです。
性についても、その美しさを自分で手折ってみたいタイプと
数は少ないけれど、その美しさをいとおしんで
いつまでも、美しくあれ、と手をつけることを良しとしない感覚。
そんな男性だっているんですね。

キズキは、雪のように白い直子の裸身の前に、無意識なまま
自分で自分の欲望を否定するようになってしまったのかもしれない。
そして直子もまた、無意識のうちに、そんな美意識が強かったのかも。
愛の女神、アフロディーテの嫉妬だけではない。
直子は処女の守護神、月の女神、アルテミスの最愛の巫女だったのか。
本性は性愛を望んでいたとしても、その時、余りにアルテミスに愛されていた?
だからキズキは呪われた? アフロティーテとアルテミスに。
(いかにもギリシャ神話。ギリシャで書き始められた「ノルウェイの森」です。)
直子はワタナベ君に説明しています。

たとえば、アメリカの作家、ポー。
自身の生活は破滅型でハチャメチャを呈します
結婚した従妹のヴァージニアを大切にし、結果、
ヴァージニアは文字通りヴァージンだったと言います。
彼女とすれば、男の思い込み?は、迷惑なだけだったかもしれません。
ヴァージニアはどんな想いなのか、ポーへの愛の詩を書いているのですが。
とにかく、そんな風に、敢えて踏み込むことを拒否するような美しさも
あるわけです。だから、そんなにも直子が美しくなければ
キズキも臆すことなくいられたのかもしれない。
聖域に始めて足跡を残そうとするオトコへのアルテミスの呪い。

そして、肉体のすべてを見せてなじみながら、どうしても決定的な性愛へ
進めなかったというエピソードは、もうひとつの西洋型恋愛の精華のイメージを
思い出させます。コンテンプラツィオーネです。
それは「愛の最高のミサ」で「プロヴァンス地方やオック後の話される地方
(注*南フランスのこと)の騎士たちが、崇拝し渇仰(かつぎょう)する
貴婦人に最終的に許される儀式」。(カッコ内は堀田善衛著「路傍の人」)
具体的には「美しき体躯に口づけを許される」もので、しかし
「ただ一つの業(わざ)を除いて、その欲するすべてはなされた」という
性愛の形。
貴婦人による「コンタンプラシオン(裸身顕示)の次に騎士たちに
許されているのは試練(アサーグ)」なのです。
ボタンをどの時点でか、掛け違えたキズキには重荷に過ぎた試練ですが。

こうしたダブルイメージは、作者、村上春樹氏が
「いつも書くときの出発点は、思い浮かぶ、ひとつのシーンやアイデアです。
そして書きながら、そのシーンやアイデアを、それ自身が持つ
和音でもって展開させるのです。言い換えると、僕の頭を使うのではなく、
書くプロセスにおいて手を動かすことによって、僕は考える。こうすることで、
僕の意識にあることよりも、僕の無意識にあることを重んじます。」
といった手法である以上、むしろ自然な成り行きなのでしょう。
「恋愛」というコンセプトの始原である南仏のロマンスへさかのぼる
著者の無意識は、キズキや直子の無意識と無縁であるはずがありません。
その無意識が形を取ったとき、たとえば、まぎれもない西洋型の恋愛小説を
書いてみようという試みになったのかもしれません。。

さて直子の意思とは裏腹に、直子のなにか不思議な無意識が、あるいは美しさ
そのものが、ほとんどの恋人に許される性愛を拒んでしまった。拒まれてしまった。
その性愛に拒まれたキズキのキズは大きい。
いや、キズキ自身もどこかで拒んでしまっていた性愛でしょう。
キズキのナイーヴな、過度に内省的な一面が刺激されてしまっていた。
キズキは思ったでしょう。大切な関係を壊してしまった。
直子をそんな汚れた目で見てしまった・・・。美しさを汚す自分・・・。
自分が自分で許せない。過剰な自分がうとましい。ウザい。
(キズキのそんな一面が、実は直子の無意識を決定していたのかも)

実は誰とでもなのでしょうが、初めての性は特に
わたしが全身で、頭脳と肉体のすべてでイエスと言う
そんな自己承認を経て行われるもの、という
「レンアイ」ではない「恋愛」の素地。
(たとえば酒に酔わせて事に及んだって、それで欲望が果たせるならいいや
ではなく、自らの意思として女性に自分を選んでもらうのが相互の自己承認)
それでなくたって、教会で、神の前で、イエスと互いに言葉に出して
認め合う儀式は、西洋では当然で、日本でもマネをするカップルは多い
わけですが、まさか、そんな自己承認を互いに求め、与えているとは
普通の日本人カップルは夢にも思わない^^
(欧米にしてもかなり形骸化しているでしょう)

キズキはそこまで意識していないけれど、持って生まれた性質だから
ある意味では決定的です。自然に、sex に対して、自己承認を自分にも
直子にも求めてしまう。そんな風に思っちゃう。
それで直子は必要以上に緊張してしまったのか?
そこまでの自己検証を求めない、色とか情とか、
状況次第で流れていく日本型のレンアイではない、確固とした恋愛観が、
未発達とはいえ持って生まれたキズキというヒトの自然であり
キズキのツマズキの元となっているのです。

ヴァージン virgin は「処女」として日本人は理解していますが
実は「童貞」ということでもあります。 virginity という点で、男女の違いは
ないのです。キズキと直子は互いに、virginity を持ち寄って、新しい
恋愛 = 性愛 の世界にステップ・イン(きっとステップ・アップだったはず)
しようとしたけれど、ボタンが掛け違ってしまった。
そしてその結果は余りに大きい代償。

自己嫌悪がキズキを襲い、苛みます。
キズキは若い男性なのに、自らの内にある自然そのままの肉欲に
振り回されてしまったと感じます。もう、直子の気持ちがどうのというより
自分自身が問題だ、自分の中のケダモノ=獣性が問題だと思いつめ・・・。
もしキズキが精神も充分に大人になっていたなら
無理やりにでも、あるいは物馴れた巧みさで
「愛」を自分に従わせることができたでしょう。
ですが、キズキは、そんな観点も、そんな器用さも、そんな能力も
まだ獲得していなかった。

若い女性と生理が違います。男は、やはり、肉欲への衝動が強いのです。
10代の若者なら、特に。
自分に対してすら引き気味のキズキですから
草食系の要素だってあるとしても
キズキは大人の男の未完成の形なのです。

キズキが直子に、いかにも若い男性らしく本格的に迫り、直子は、理解はします。
できるだけ、キズキの意思を受け止め
喜んで応えてあげたいとも思った。
キスだったら、六年生でしていたくらいだったから。
ですが、いざ本格的な欲望へ、自分を投入することに
どうしてもためらいがあったのか・・・。
直子は「身勝手な美しさ」を確保していたかったわけではないのに。
いったん踏み越えたら、もう二度と戻れない清らかな世界が惜しくて、
ピュアな自分のままで、まだしばらくいたい。
そんな無意識の意思。アルテミスの願い。自分ではない自分があったのか?

どことなく忌避する傾向。
そして笑顔で、二人してごまかしていても
キズキの悩みは最高潮を迎え、ついに・・・。

そしてそうした傾向は、程度の差こそあれ、誰しも
少しは持っているのかもしれません。
それは、人間性の中に潜む聖性と獣性の相克です。
汚れない魂への昇華を願う気持ちと
肉体を持つ、動物の仲間であることからくる
欲望として現れる獣性。快楽を求め、快楽へ流れやすい獣性。

キズキと直子の二人は、その点、聖性を求め、こだわる部分が
普通のカップルよりもちょっと多かったのかもしれない
というのが、舎人の「読み」ですが・・・。
(自分たちがあるべき性愛の形を求めるという姿は
ジッドの「狭き門」と重なリます)

キズキを救えるのは直子なのに。直子の肉体なのに。
マリアさまのように、優しく、汚れた自分を包んで
許してくれるのは直子の具体的な肉体でしかないのに。
キズキに、己の欲望を己に許しなさい、と語って助けることができたのは
直子の役目だったのに。
直子が「素直」に、「ストレート」に大人の男としての
キズキのもとに来てくれていたら・・・。
(直子という命名に注目してください。作者の他の作品の関係はともかく)

直子がスムーズに、自分とそんな関係となり、さらに
明確で確固とした二人してひとつの世界へ
新しい局面となる大人の恋愛のパートナーとして、
自分を伴って踏みだしてくれたら、
キズキが死を選ぶことはなかったはず。
直子の肉体にひそむ無意識が
素直にイエスを言ってキズキを承認し、
ノーと言わなかったら、キズキもノーを言うことはなかった。自分の人生に。
つまり、直子の意識はイエスと応じているのに、聖性への憧れなのか
なにものかによって阻まれてしまっているから、直子もキズキも
何が自分たちの恋愛の進化=深化を阻んでいるのか、わからないままなのです。
そうやって、とくに、まずキズキが絶望へと落ち込んでいったのですが。

キズキが死を選んだということは、つまり
キズキが人生にも、直子にも、ある種のノーを言ったということ。
これも明確な西洋型の恋愛の論理なのです。
あんなことがあったから、こんな風に事が進む・・・となると、
あの事に対しては・・・・こうなるわけで、では・・・といったやり取り。
少なくとも、たとえ直子の肉体だけによってノーを言われたとしても、
それでも敢えてそのノーを一刀両断で無視して、直子の全存在をそのまま
受け入れていれば、すべてを否定してしまう死を選ぶことはなかったでしょう。
そんなチカラワザは神ならぬキズキにはまだまだ無理なことですが。
あの時、キズキを拒んだ肉体を持つ直子は、もちろん
アンドロギュノスの球体の片割れ=better-half 同士であるなどと
その時、意識できていません。

恐らく最後まで、アンドロギュノスなどといった言葉を知ることは
なかったかも知れません。きっと、二人は知らなかったと思います。
もし知ったなら、自分はなんというものを壊してしまったのかと
どれほど後悔に暮れることになるか恐ろしいほどです。
そんな苦痛は知らなかったと思いたいですよね。
いや、或いは知っていたら、ぼくたちはアンドロギュノスの片割れ同士なのだから
と、不安や疑問のときにも、力強く、揺さぶられずにいられたかもしれない。
時間が解決してくれると、安易に、力を抜いて待っていられたかもしれない。

そして同時に、その行為とは、アンドロギュノスの球体を完成するための行為
などとは、まったく想像もできていなかった。そんなコンセプトなんか
知らないし、必要としていなかった。
わざわざ、その球体を完成させるために、性体験をすることなど
普通はありませんし、キズキと直子にしても
そのような知識先行の不健康なヒトではないでしょう。
(その無邪気なパピー・ラヴのままで素直に事が運んで球体を完成させ、
大人になれたら、どれほど幸せなことか)。

キズキが決定的な死を選択してしまった後、
それほどに無二の存在として感じていたキズキを失ったことは
直子はアンドロギュノスのことなどなんにも知らないまま
決定的ななにかを失ったと、その事実の痛みにようやく気づくのです。
それでも、まさか、生涯唯一の恋愛の相手を失ったなどとは、まだ思わずに。

そうやって疎外感、喪失感、悔しさといった複雑な想い
を、直子は持たされてしまったのです。
「同じ」球体の片割れだったのに、それを完成することはもうできない・・・
などとは知らないまま、事実としては無理解で冷たい、そして孤独な
大荒れの世間に放り出されて、ジワジワと自身を侵してくる無念。
療養が必要なほどの精神の混乱。

ワタナベ君は、ストーリー展開のための狂言回しという役割が最初の定位置です。
そして普通の性を持つ普通の男性の代表選手であり、この複雑な気持ちの動きを
外側から、そして後日であっても、一種爽やかな語り口で語ることができる
リポーターです。
キズキそして直子と決定的に違う世界に属しているのは
「ときどきすごく女の子と寝たくなる」ことがあり、それは「ときどき
温もりが欲しくなるから」であり、「そういう肌の温もりのようなものが
ないと、ときどきたまらなく淋しくなる」そんな「渇き」に急かされている
ところが何よりの証拠です。問題意識は、キズキと全く方向が異なるのです。

けれども「焼けつかんばかりの無垢な憧れ」をどこかに置き忘れ、それでも
ハツミさんのおかげで<僕自身の一部>だったと思い出すことが、ワタナベ君が
仲介役にもリポーターにもなれる資格の証拠です。
そして「正しい」性の片割れを探そうとしない、探す必要を感じていない人
にとって、セクスとは人生でどんな意味があり、どんな作用を果たすのか? と
キズキと直子の二人の「恋愛」を浮き彫りにし、対比させるための存在。
そしてワタナベ君は次第に、それから最後に決定的に
自身の過去の過ちに気づくことで、キズキと直子の世界に一歩
歩み入ることができる資格=可能性を示しているわけです。

最後にワタナベ君が思い当たることとは、まず高校三年のときに初めて寝た
ガール・フレンドにどれほどひどいことをしたかを思って、冷え冷えと
感じることができた。
そんな過去を振り返って「自分自身を穢れにみちた人間のように感じた」。
キズキの死の後と直子との交流の中で、次第にわかってくるものがあり
緑を安易に抱いてしまわなかった自分に、いつか自然に到達していた。
安易に性関係を持たなかったそのことによって祝福を受けることになるのです。
まったく新しくリセットして、前提条件ゼロの性愛を始められるのだから。
(緑の側の事情も、それなりに緑は整理整頓をしたはずです)

そして直子の彷徨を通じて、アンドロギュノスの球体を
直子とつくる片割れはワタナベ君ではなく、正しく直子と向き合う
組み合わせは、やはりキズキしかいなかったと再確認させるための役割でも
ありました。そう。この恋愛小説のひそやかな主人公は、
キズキと直子の間に芽生え、二人が「ポールとヴィルジニー」
のようにはぐくんだ清らかな恋。
至純な肉体と欲望を持つ大人の愛へと育つべきだった初恋。
「ノルウェイの森」とは、わたしと君と恋愛の三位一体の物語。

汚れを知らない幼いころからの恋心から、いざ大人への一歩を踏み出そうとして、
二人のタイミングがずれてしまった。ボタンが掛け違ってしまった。
キズキは自分を恥じたのか、それとも処女の守護神アルテミスの呪いのせいか
自殺してしまい、後に残された直子の喪失感は
直子自身を抜け殻とし、その生きる時間を空虚なものとした。
直子はキズキに与えるべきだった自分の聖域を、どこか自分を罰するかのように
ほかの男(ワタナベ君)に与え、やがて、その罰さえも自分の生きる時間の
支えになりはしないと悟って、自らも命を絶つ。
この物語を大きく動かしたのは人物ではありません。やはり二人の愛なのです。
だから、100%の恋愛小説なのです。
(恋愛小説って、本来、そんなものかもしれませんが)

それでも、主人公はワタナベ君では?と読む方もいるでしょう。
しかし、少なくとも直子から見たら、ワタナベ君は二番手なのです。
「あなたに対して公正ではなかった」と手紙を書いていますが
それは直子が 1 vs. 1 で向き合っていなかったから。
公正な向き合い方だったら当然、1対1でなければいけません。
ですが直子は、その関係にいつもキズキを介入させていた。
キズキは直子の中で絶対だったけど、それだけに、
直子とワタナベ君の間にキズキが介在すると、なんとも確定不能の定数
という役割で、直子とワタナベ君との間にあやふやをもたらしていました。
映画「男と女」での、事故死した夫が、まさにキズキのポジション。

もちろん、直子がワタナベ君と 1 vs. 1 で向き合い、フェアにつきあおう
とした時はあります。寮でひとりワタナベ君の部屋に入り、月の光の中で
ボタンをはずして全身をさらすシーンです。
フツーの健常な者からみればいささか大胆すぎて常軌を逸しているかに見える、
ピエロならぬ月に憑かれた直子の振る舞いです。
ここでは月とはルナティック=狂的な象徴ともなっています。
果たして直子は悩み病んでいたわけですが。

この裸身顕示は何なのでしょうか?
ひとつには、自分の肉体は正常なのだ、恋人を拒否する肉体ではない、
すくなくとも今は、そんな不完全な肉体ではないことを
ワタナベ君に承認させたかったのか?
ワタナベ君がそれを認めるなら、自分の肉体のキズキへの拒否が
あの時だけのことだったと、すこしは癒されるから?

第二には、やはりワタナベ君に自身を差し出し、性愛を少しは積極的に
受け入れていこう、そんな生きる努力をしてみようなんて思ったのかもしれない。
ところがワタナベ君が手を出しません。
今度は月の女神アルテミスも柔らかな月光で包んで認めてくれているのに。
こんなに成熟した肉体となったのに。
直子はホッとしながら、残念にも思ったでしょう。
やはり自身の肉体は恋する相手を、或いは男性を、
拒否するのだ、と思ったかもしれない。
神話では、アルテミスの乙女らの裸身を盗み視ることで
罰が与えられています。しかしワタナベ君は明白な罰を受けることはない。
むしろ罰は直子のもとへ訪れます。
アルテミスは余りに直子を愛したのか? ここに至って憎さ100倍なのか?

いいえ。それは神慮。
お前はもう正しい相手を失ったのだから、もう性愛は必要ない。
だから潤う必要はない。
そんなアルテミスの叡慮。
時にギリシャの神々は意地悪です。
特に女神たちときたら。

そしてワタナベ君も「これはなんという完全な肉体なのだろう」と
直子の裸体の美しさに打たれています。
自分が触れることで汚す事がないように、という感覚を
少しは共有しているから、手が出せないのかもしれない。

ところが直子はそうは思っていない(かもしれない)。
アルテミスの性愛不要宣告なんて知らないまま
自分が、自分の肉体が潤っていないことを知っているから。
思わなきゃいいのに、そんなことスルーすりゃいいのに
直子は過敏に誤解して
やっぱりわたしの肉体は男性をはねのけるのだ、必要としないのだ
なんて感じてしまった(かもしれない)。

直子は、ワタナベ君に自分からは言えなかったけれど、レイコさんからの手紙で
わかる通り、「会うときは綺麗な体で彼に会いたいから」と思っていました。
外側の絶対的な綺麗さと内側の不安定な綺麗さ。アンバランスなんですね。
直子はいまだに、自身の美しい肉体によって傷つけられています。
月の女神のアルテミスはやっぱり、直子に対して親切じゃない。
やがて直子は月食のように
自らの姿を消し去っていくのです。
(後にレイコさんが直子のお葬式としてギターを弾きながら歌います。
「亡き王女のためのパヴァーヌ」と「月の光」です。
パヴァーヌはそのままタイトルでなぜ採り上げられたか、わかりますね。
「月の光」はどうでしょう? なぜ、この曲が?
あの月の光を浴びていた日のことを直子から聞いていたから
と説明できる選曲としても、やはり、アルテミスの巫女だった、
という暗示なのではないでしょうか?
もちろん、何よりも直子のためのレクイエムとして捧げられたのだけれど。
同じ「月の光に」でも、それを下敷きにしたムスタキとバルバラの
「ブルネットの婦人」のような優しさを持ち寄るシャンソンだったら・・・)

一方のワタナベ君は、「俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は
生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ」と
正確に自分の立ち位置を認識するほどに、成長の跡をのぞかせます。
そして「僕はもう誰とも寝ていません。君が僕に触れてくれていたときの
ことを忘れたくないからです。あれは僕にとっては、君が考えている以上に
重要なことなのです」と、ようやく 正解=正しい恋愛 に近づきます。
「君が考えている以上に」ともったいぶる割に、やっぱりトンチンカンとしても。
直子とキズキの世界そのもので、何をいまさらといった自明なことなのに。
だから手遅れなのです。直子の背中を押してしまうだけなのです。

直子にフェアに扱ってもらえなかったワタナベ君。
相手と向き合うということは、自分と向き合うということです。
ワタナベ君は歯車が合わず、直子と向き合ってもらえません。
だからそんな鏡なしに、自分で自分と向き合うしかないのでしょう。
でも直子はワタナベ君の鏡ではなかったとしても、
あたかも血を流すイエスであるかのようです。
直子の苦悩と死によって、ワタナベ君の原罪があがなわれるのです。
特に直子によって、ワタナベ君はゼロ地点に戻されたことで、ワタナベ君は
緑と正しいアプローチで向かい合っていくようリセットされることになるのです。
そうやって正しい性愛へと、直子に導かれたのです。

話を少し戻して、自殺してしまうキズキの気持ちを
もうすこし詳しく考えてみましょう。
そもそもキズキなんて、ここがキズキがありますよ、と
作者がランドマークを示している命名にも思えます。
キズキの自殺を選んでしまう気持ちこそ
物語の最初の源流という標識。

さて性的関係とは、何よりもまず、魂の融合であってほしい。
そこまではキズキも直子もなんとなくであっても同じでしょう。
そこから、肉体の融合を実現する結びつきへは
どうしても、直子の中の何かが踏み込ませなかったのだけれど
つまり二人は聖性と獣性の調和を実現することができなかったわけです。
直子の肉体がその時は言っていたのでしょう。
清らかな、魂の融合のままで、どうしていけないの?
キズキも内心、そんな風に同調していて。

キズキは、直子の(肉体の無意識の)意思にさからってまで
己の欲望を遂げようとまでは思わないでしょう。
しかし若い男性ならではの恥ずかしさもプライドもあります。
心から信じていた直子だから、君が理解できなくて
誰が、このわたしの思いを理解できるのか、と、それを願った。
でも直子のなにかから同意を得られなかった。
自ら獣のようで、恥ずかしい肉欲と違和感が変に浮き上がっていただけに
なおさら、自分に、直子に、恥ずかしかったでしょう。

利休の言うように 叶うはよし、叶いたがるは悪(あ)しし なのです。
直子とともに、素直に、スムーズに肉体によるつながりへとステップを
進められたならよかったのに、叶えられず、キズキの 叶いたがる だけが
醜く宙ぶらりんとなってしまった。
キズキは、その宙ぶらりんに耐えられない・・・。

そもそも、肉体の欲求など無視して
魂だけの結合・融合をこそ目指したい
という気質だって、キズキはほかの男性よりも強いのです。
男性としては、女性の成熟を待つ生理に寄り添い、
細やかに思い致せるタイプなのでしょう。
そもそも自分の欲望を持て余している、としても
その相手の直子自身は拒んでいないのだから。
協力的でさえあるのだから。
しかし二人の性のつまずきこそ、二人がまさに互いをこそ求め合うべき
と正当に感じていたと言える証明でもあって。

キズキは苦しく、つらかったでしょうね。
宙ぶらりんの欲望を抱えて
そんな耐えがたい時間を
叶いたがるは悪しし などと自分を問い詰め過ぎず
何者かに守られて、生き続けることができていたら・・・。
その時は、いずれ直子が準備できたときには
キズキと直子は、このうえない見事で美しい
カップルとなっただろうに・・・。
まだ直子は準備ができていなかった。
キズキはなにものかに拒絶されていた。
そしてキズキは逝き、
この世に一人ぼっちで取り残され
直子は流されて生きていくしか・・・。

直子の肉体が、なにかのこだわりで拒んだ初めての性も
もう、あまり意味を持つことができません。
ワタナベ君に初めてを与えながら
キズキに、キズキとこそ と
心に涙をたたえながら、間に合わない後悔で
自分を罰しながら、人生をあきらめながら、いやそれでも
人生を求めながら、身をまかせて・・・。

そうです。
物語の主要な部分で、キズキを失った後
直子がさすらうしかなかった、その様子が描かれるのです。
もはや、直子に正しく向き合う者はいないことが描かれるのです。

直子はワタナベ君に、何人の女性と関係があったのかを尋ねます。
キズキはゼロだった。もしあるとしたら、1とは自分がなるはずだった。
自分の1とキズキの1を持ち寄り、もっと大きな、孤独とは無縁の
満ち足りた大きな大きな 1=アンドロギュノスの球体 をつくっただろうと
確認できたはずなのに・・・。

ところがワタナベ君の持っている数字は 8 or 9 です。
それこそ、やはりワタナベ君が、直子のアンドロギュノスの片割れでは
なかったという証明。
夾雑物がいっぱいで、単純な わたしとあなた という永遠の愛 ではない・・。

もし 0 と答えたなら、直子とワタナベ君との間に可能性が広がって
別の物語となったでしょう。
ですが、「八人か九人」という答えは、やはりワタナベ君ではない、
キズキしかいなかったのだと直子に再認識させます。

ワタナベ君の客観的事実としての 0 でない数字は、やっぱり
直子を絶望へ追いやります。
そんなキズキを失ってしまったのだと。死なせてしまったのだと。
失われた愛の後日譚。キズキを失った喪失が、どれほど直子にとって
意味が大きかったかを示すための後日譚。
その失われた愛をつかまなければ、この後日譚は解き明かせない。

失われたキズキとの愛を、直子が魂の奥底で悲痛に、恋しく、求めたのです。
ワタナベ君ほかさまざまな登場人物によって浮き彫りとなっていく
さまざまな生の在り方と直子。それは直子の性の在り方と言っていいのだけれど
直子にとっては、愛はもう不可能という証明となって・・・。

心中を美化してはいけませんが
直子はキズキと会うしかない
と思ったのかもしれません。
たとえ、こことは違う、あの世であっても、と。

会って、もう一度、やり直したいと思ったことでしょう。
いつか、もう一度、二人して同じような時間、同じような場所に
再び肉化される(リインカーネーション=輪廻)こと。
新しくなんの罪を持たないまま出逢って、素直に
二人の魂と肉体の結合・融合を喜びあえるように、と。
今度こそ、互いの肉体の中に自分の夢と願いの実現を確認し合って。

この原稿は、ワタナベ君を不当に扱っていると思われる方も多いことでしょう。
ですが次第に、そして最後の最後に、ワタナベ君は主人公としての姿を見せます。
わたしの物語だ、主役はわたしだと意気込むかのように、
読者の前で一気にアピールしています。
キズキの、直子の、ワタナベ君の、緑の、永沢さんの、
ハツミさんの、そしてレイコさんといった巡礼たちの、それぞれが
sexを巡る「天路歴程(てんろれきてい)」 The Pilgrim’s Progress
ならぬ 地路歴程 を果たす物語を、最後になって統括するかのような
したり顔のエンディングの段落です。

ワタナベ君を本来の主人公としてみるなら、この物語は確かに
ワタナベ君がどうして正しい性愛の相手である緑と出会ったか
という小説なのでしょう。直子やキズキや、そういう影響を受けることで
緑と肉体的関係を持つ前に、ちゃんと向きあうことができたという恋愛小説。
「ノルウェイの森」とは、第一章で破れてしまったキズキと直子、
第二章を始めることができたワタナベ君と緑のふたつの恋の物語とも言えます。

さて、焦点を集め始めた主人公のワタナベ君です。
レイコさんと「あれ」をして、レイコさんもワタナベ君も、世間一般と仲直り
するために、いったん0地点に戻るためのセクスをします。「穢れ」を振り払う
ために、互いに互いを利用し合って。
このsexは、再生のための、もう一度世界と向き合うためのsexです。

年上のレイコさんから持ちかけて、応じる形のワタナベ君でした。
そうやってsexを交換したことは、ワタナベ君にとっては、上記のとおり、
緑と正しく向かい合うためのラスト・ステップでした。レイコさんにとっては、
純粋培養の世界からヨゴレた世間へ飛び出すためのファースト・ステップ
だった。性愛はそんな風に癒しと浄化の役割を果たすことを示しました。
そうやって初めて、ワタナベ君は、緑とのふたりの初めての性愛へと至ります。
(レイコさんが、浄化のために夫に抱かれることを求めましたね)

過去のレンアイとは異なる、正しい恋愛。しかも重いものでなく、
ライトで、場合によってはワタナベ君と緑がそれぞれ持ち寄るような
やり直しアリの恋愛。あまりに無様で、見方によっては薄汚れている
ようだけれど、それでも復活してやり直すことができるという恋愛。
或いはボノボのように、個体同士のストレスをsexで解消する
といった必要性から派生してくる恋愛。

現代の若い世代は人間関係への恐怖感やら面倒といった気持ちから、
愛を正面から認めようとせず、初めに敢えてイージーゴーイングなsexを
むすびつきの第一歩にしたりします。
それが、HIJKと揶揄される若者の性の状況なのでしょう。
エッチ(H)が先にあって、そこから愛(I)が生まれ、そしたらジュニア(J)
ができた結果、結婚(K)が来るといった過渡期にある現代の
不安定な恋愛と性愛のポジショニングです.
多くの場合、「青春の蹉跌」(石川達三著)といった無残な結末か
ただ忘れ去るしかないという無意味・・・。

しかし、だからこそワタナベ君と緑は、もっと素敵な愛し方がある
もっと美しい男と女の関係があるという象徴的なモデルケースであり、
日本人社会の恋愛事情という観点からは、ひとつの到達点なのかもしれません。
ワタナベ君と緑の結びつきは、そんな風に恋愛が混乱している時代だけど、
ちゃんと想いを大切にしてsexの関係に入ろうよ、そのほうがずっと素敵だよ
という作者のメッセージなのかもしれません。
本当に正しい恋愛の相手って、本当に君なの? 一時の気持ちの高ぶりとか
感情の思い込みとか欲望の噴出なんかでなくて、何度も何度も確かめて
この人こそ正しい相手だ。この人となら本当の恋愛になると思える、本当に
本当の相手。何度も本当に本当の自分に訊ね、本当に間違いなく、正しい相手だ
と本当に信じることができた相手。そんな風な間違いない検証の末に、正しい
相手と思えたからこそ、Hへと進もう。その方が性をこの世に与えられた意味が
輝くから。そんな提案なのでしょう。

そして、作者は、実際に生きている現実社会で、ちゃんと生きていこう、つらいことがあるけど
それでも生きることはできるし、それならできるだけ素敵な生き方をしてみよう
と、人生をポジティヴにとらえているように思えます。
なぜなら、タイトルが「ノルウェイの森」なのです。
これはキズキと直子のテーマではありません。
むしろ、ワタナベ君の世界にふさわしい音楽世界です。
過剰に内部世界を描いたり、基づいたりする音楽ではありません。
精神世界を反映し、象徴する音楽ではなく、むしろ日常感覚で
鼻歌にでもして歌える現実世界の歌です。

「月の光」というタイトルなら直子の世界の象徴で、
直子を、そしてキズキの内面世界をこそ、作者は描きたかった・・・
と受け止めることが可能です。ですが
内面世界にあまり立ち入らない「ノルウェイの森」という楽曲がタイトルなのです。
ということは、やはりこの「ノルウェイの森」全体が、実はワタナベ君の世界を
描いているという有力な証明ではないでしょうか?
このタイトルで、ワタナベ君がやはり主役だったと、正当性を持つに至るのです。

あのタイトルは、本当は誤訳だという話がありますね。
あれは本当は、ノルウェイの家具のことだという。
そうした誤解に基づく言葉が、この恋愛小説のタイトルとして選ばれて
なんの不思議もないのが人生、そして人生を含む社会なんだ。
結局、薄汚れて、ある意味欲望まみれの世界なんだ。
キズキと直子はその現実世界では敗れてしまった。
だから内面世界を偏重しすぎて現実世界を軽視してはいけない。
かといって現実世界で流されて、美しさなんて何も考えずに現実世界に
まみれることも避けた方が、人生という名前に値する生き方なんだ。
ともかく現実としては、内面世界より現実世界のほうが大きい、
この現実を生きていくしかない、ということなのかもしれません。
人生とは一言で言えば、不条理なのでしょうけど。

そして「ノルウェイの森」の冒頭に置かれた巻頭辞「多くの祭りのために」とは?
祭り に「フエト」とルビが振ってあります。
活字の大小で区別がないルビ活字ですから、ここは「フェト」と見るべきでしょう。
ではフエトとは何か? 
多くの英単語同様、フランス語 fête(フェット)から festival フェスティヴァル 
祝祭 ができました。巻頭辞のフェトとは、フランス語のフェトなのでしょうか?。
ネットで調べると、英語では fet として fraternity exxtending togetherness 
との説明があります。一体感を広げている友愛 という意味です。
これが一番、この小説の全体像に当てはまるのではないでしょうか? 
キズキや直子やワタナベ君や緑や永沢さんやレイコさんらと共にした日々。
それはめいめいがバラバラのようでいて、あとから振り返ってみれば、
めいめいが自分自身の命の炎を燃やした祭りではなかったか? という感慨。
ひとりひとりの生が、なにかに捧げられたかのような厳粛さを、
祭りと表現したのではないでしょうか?
ひとりひとりが持たされて生まれてきた 性 sex という
やっかいな暴君であり、優しい守護神、生まれたことを輝かせる美神でもある
絶対的な存在が、彼らを踊らせた主神であったその祝祭である生。

さて、「ノルウェイの森」を振り返ると、ひょっとして、ひょっとしてだけど
直子もまた「狭き門」のアリサのように、新しい性愛の形を求めさせられて
いたのかもしれない、という気がしないでもありません。
あまりに頼りなさ過ぎてはいるのだけれど。
アリサは、イヌやネコやアダムとイヴのような天然の、自然そのままに
与えられたsexから、そんな本能から離れた性愛が人類に現れ始めた20世紀の、
その潮流の波頭にひとり屹立(きつりつ)させられてしまった・・・
けれど、100年ほど後の直子はさすがにそんな先端ゆえの傷つき方は
していません。けれど、やはり自身が叶えられる性愛の形を見つけられず、
充分、孤独で胸の痛む思いを迫られてしまった。

「狭き門」のジッドの後、フランスには詩人、エリュアールが出て
Tout est clair sous ce drap blanc
すべては明るい この白いシーツの下で 
と、それ自体で白い光にあふれた澄明で明晰な性愛の形を示しました。
この「ノルウェイの森」は、そこまでの明確な性愛の姿を指し示しては
いないようです。

そうはそうなのだけれど、20世紀末の日本に現れるべき新しい性愛の形の
その潮流の点描としてキズキと直子はいたのかもしれないと思えるのです。
直子とキズキはエウリピデスの劇中人物のように
自らの役割=宿縁?を演じて去るしかなかった。
「お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、
お前しばらくそこでじっとしてろ」といった具合に神に処理されて。
しかし、もっと楽に生きようと思えばできたかもしれない。
でも、そうは選ばなかった。ベストを尽くしつつ
あんな風にしか生きるほかなかった。
それを結局、神に導かれたと言うべきなのか?

神に処理されただけなのか、あくまでも自身の感覚に従っただけなのか。
ともかく、アリサとジェロームも、直子とキズキも、ともに
予(あらかじ)め失われた恋人たち であるほか、いられなかった・・・。

最後に。
蛇足のようなものですが、結局、「ノルウェイの森」で作者が言いたかったこと・・・を思います。

生きていよう。いつか、生きていてよかったと思える日が来るから。
精神的なこと、内面のあれこれは重要だけど、生きる邪魔になっては本末転倒。
人生の薬味程度ならいいけれど、必要以上の闇は持たないほうがいい。
近づかないほうがいい。近づかせないほうがいい。

生きていて良かったと思える日を迎えるには、素敵な異性が一緒に
いてくれたほうがずっといい。できれば宿縁と言えるほどの出逢いならもっといい。
そのためには正しい出逢い方をした方がいい。
自分の性欲を満たすために相手を利用するような出逢いは、
相手を傷つけるような利用の仕方は、しないほうがいい。
相手のためにも、自分のためにも、実は、ならない。
なぜなら、その闇がいつか自分に降りかかるから。

だから少しずつ、ゆっくりと知り合ったほうがいい。
警戒すべきは自分自身の欲望。
ブレーキのない車になってしまいかねない、暴走車になりたがる
自分の肉体に気をつけたほうがいい。
自分の肉体を大切にしている人とつきあったほうがいい。
コンテンプラツィオーネのように、制約があったほうが
その愛の行為の意味をより深く理解できるから。

その出逢いを輝かしいものにするためには
美しい生き方を意識していよう。
その恋愛をいつまでもと願うなら、
ダイアモンドのように絶対的に輝く恋愛であると願うなら、
いつも永遠性と絶対性を意識していよう。
そしたら、時間に流され、欲望に流されかねないレンアイとは違う
ヨーロッパ映画のようにカッコいい恋愛になることだってあるから。
愛が喪われた、色あせたと幻滅する可能性は低くなるかもしれない。
そんな恋愛で満たされる人生って、きっと素敵な人生となるはず。
少なくとも、その可能性は高まるはず。

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