パワーストーンの真実。

舎人独言

健康&グルメに・・・ 翡翠 のパワー。

ノルウェイの森 読解 上 アンドロギュノス

ノーベル賞を村上春樹氏が獲ったなら、やはり、西洋型の恋愛を
日本と言う土壌の中で工夫して花開かせることを試みた
「ノルウェイの森」の存在は大きな要素となったことでしょう。
その意味で帯に書かれているとおり、「100%の恋愛小説」
なのです。アンドロギュノス神話を下敷きに、南フランスで花開いた
騎士道や「クレーヴの奥方」「狭き門」といった恋愛小説の系譜につらなる。

本を読む以前の事実として、人間としての当たり前があります。
sex とか恋愛は実は、基本的に年齢によって意味合い、重みが違います。
だから直子たちが50歳だったら、この物語はそもそも成立しません。

さらに、これは「狭き門」でも指摘しましたが、もはや現代日本社会では
主流になったかと思われるアメリカ流のプラグマティックな恋愛、
もっと端的には肉食系などと言われる恋愛になんら疑問を持たない人には
この「ノルウェイの森」の直子の悲痛は実感を伴う痛みを持って読むことはできない
のでなないかと思われます。ヨーロッパの中世にまでさかぼる無私無欲の騎士道、
「クレーヴの奥方」や「狭き門」といった、受肉して生まれたことの苦悩や畏(おそ)れ
を持たない人には無縁の小説でしょう。残念なことですが。読者を選ぶ小説でしょう。
もちろん、舎人の勝手な「読み」かもしれませんが。

性の意味合いを等身大(だいたいでいいんですけどね)に受け止められなくて
10代や20代では必要以上に重く、大きく受け取ってしまいがちです。
「ノルウェイの森」で、キズキを失った直子は、それでは、sex とはどれほどのものか
性の荒野をさまよい続けます。そして。こんなことのせいでキズキを失ったのか
sex などというものはキズキの存在に値するほどのものでなんか全然なかった
と思い知り、今さらながら絶望を深くして自死を選んでしまいます。

性愛への穏やかな着地に失敗した2人の運命的な恋人の、
「狭き門」や映画「華麗なる賭け」(主演:スティーヴ・マックィーン、
フェイ・ダナウェイ)や「追憶」」のような勝者なき恋物語(ロマン)であり、
付言するなら、傍らで見ていたものが狂言回しとして語る物語でした。

「ノルウェイの森」は、ノーベル賞を受賞したジッドの「狭き門」に似て
純真でかわいい Puppy love(パッピィ・ラヴ)から大人の性愛
への穏やかな移行に失敗し、敗れて死へと向かっていった者たちの物語です。
アンドロギュノスの球体を2人でつくるのが本来の2人の在り方なのに
その片割れを失ったあと、後に残された者にどれほど無慙(むざん)な暴風が
吹きすさぶのかをつづった恋愛小説です。
主人公は、作者が言うように、テーマでもある恋愛そのもの。
キズキと直子はその「恋愛」を語るうえで最も重要な駒。特にキズキはその台風の隠れた目。
一見、主役のように見えるワタナベは英語で言う仮主語的存在で
物語を読者に知らせるために必要な狂言回しに過ぎないという構造です。

また作者の村上氏は「実は100%のリアリズム小説」と帯に書きたかったとも
発信していますが、これはコインの裏表でしょう。2つの要素で1つとして完成する感覚。
「クレーヴの奥方」までさかのぼる恋愛小説、いやもっとそれ以前のロマンスとはさすがに
自分では言いにくい。作家らしい繊細な感性でテレちゃって、洒落っ気で「恋愛小説」という
死語のようなものを引っ張り出した・・・と弁明のような発言ですが、実は本当は「100%
リアリズムの恋愛小説」といった自負のような気持ちがあったのではないでしょうか?
キズキの自死が巻き起こす巨大な暴風雨は遂に永遠の恋人である直子を静かに連れ去って
いきますが、本当に本物のアンドロギュノスの球体となるべき恋愛なら、これはリアルに
ありうることと言いたかったのではと想像します。本来の球体が破壊されたら、不本意に
核分裂されたかのようにキケンなことがいっぱい起きるのです。もし穏やかな核融合だった
なら、キズキと直子はどんなに幸せで強く強く光り輝くカップルとなっていたことか。。

「ノルウェイの森」はとても評判となった大ベストセラーです。
ところが、そんなに売れたのにとても批判が多い。100人にオ00通り
の「読み」があるといった感があり、中にはポルノまがいという声さえ聞かれます。
ですが、作者の村上春樹氏が語る「100%の恋愛小説」にしっかり焦点を
当てた書評・感想は、むしろあまり見かけないようなのです。

そんなわけで、見当違いと思える批判の声がかまびすしくなっている感があります。
判官びいきではありませんが、この誤解を受けやすい「ノルウェイの森」が秘めて
いるものを読み解き、できる範囲でしかありませんが、真価に迫っていきたいと、
ここに上・中・下と3回に分けて駄文を連ねることにします。
極言させてもらうなら、作者がヨーロッパの恋愛を念頭にしたうちで、最大のものは
ジッドの「狭き門」だったのではないでしょうか? そして執筆の意図は、「狭き門」を
現代の日本で展開させたら、といった恋愛の、あるいは恋愛の不可能性を描ぐことにあった・・・。

話をわかりやすくするために、まずこの物語で具体的には、誰が主人公なのか
を記してしまいましょう。
もちろん、舎人の「読み」に過ぎませんが。
それは、まさに互いのために生まれてきた男女が、「ポールとヴィルジニー」のように
健やかに育っていき、やがて大人としての性愛でアンドロギュノスの完全な球体を
実現するはずだった「恋愛」です。理想的な恋愛が主人公なのですから、
作者が記したように、まったく100%の恋愛小説です。ただ、その「恋愛」が
既に失われている事実が大きいのですが。性愛への移行に失敗する「狭き門」の
アリサも道しるべを失い、迷路に迷い込んでしまったのでしたが。

いつかはポールとなるべきキズキが性愛に移行することを直子に持ち掛けます。
しかし直子は、恐怖感なのか、テレなのか、なんとなくなのか、深く考えずに拒否します。
冗談にして笑い流して、それはいつも二人にはよくある風だったかもしれません。
さすがになんといってもヴィルジニーとはヴァージンであるということですからね。
直子のノーで、キズキは性愛の一面である醜悪さを突きつけられたと感じ、それを直子に
持ち掛けた恥ずかしさ、自分の至らなさ、恥辱に過度に反応して自殺を選んでしまいます。
深くは考えず、いつもの調子でお気楽にノーを直子が示した結果、あまりに大きな不幸が訪れました。
(若者ならではの大きなダメージ。キズキが50代ならそんな風には受け止めない)

そしてアンドロギュノスの球体を完成させるべき片割れを失うという大きな代償を支払う
ことになった直子は、大きな傷を受けた心そのままにキズキのいない時間を漂い、
キズキがいないならもう性なんて大した意味がない、それとも意味があるの?とばかりに、
性愛であふれかえる現世の波間に身を放り出してしまいます。
この小説は、アンドロギュノスの球体の、その片割れを失った者がどんなに無惨にさまようか、
という物語なのです。

「ぼく」と一人称で語ることで一見、主人公にみえる「ワタナベ」は、キズキと直子の
添え物でしかありません。英語では it が時に仮主語を務めますが、そんな仮の主人公に過ぎません。
それでも登場しなければいけない理由は、ストーリーを展開させるための狂言回しが必要だからです。

以下、とても長い乱筆乱文を時に感覚的に記しました。さらに次のページなど、長すぎて
忘れられているだろうと、おさらいもしていますので、また同じことをと、冗長に
すぎるように感じられるかもしれません。
ともかく、細かいところは気にせず、わかるだけでいいや、わかんないところは
あとで・・・くらいの気持ちで読み進めていただければ幸甚です。
また断定的な物言いがお気に障るでしょうが、単なる個人の「読み」に
過ぎません。ご理解をお願いいたします。

「ノルウェイの森」は、君でなければダメ、君をずっと好きで、
わたしたちは永遠に愛し合うのよ、という初恋の素直で単純で絶対と思える愛が
順調に育っていく過程で、不幸にも「(生き物としての)人間なら当然」とも
言えるかもしれない性愛への無事な軟着陸に失敗してしまった物語。
核心だけを見れば、ダイアモンドの輝きと真珠のような涙の物語です。
裏側から見るなら、タイミングよく 愛=性 とピタリ二つが合致するなら
愛も性も人生も、最高に輝くはずという物語。
バカにしたくなるほどナイーヴな愛のおとぎ話を、でも実現したらいいナ、
でも陰画という形で書くしかなかった、もはや充足することのない性を持つ
大人になっていく者のための寓話。

  

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もっと分析的に言うなら、恋愛の正しい相手を失って
どれほどの無惨が巻き起こったかが描かれる恋愛小説。
その無惨を描くことで、大人の性愛へと「すこやかに」育つことができなかった
唯一無二の絶対の愛を描き、純愛にも性愛が大切であり、だから、なぜ
人生に性愛というものが存在するのかを描いた物語。そして
キズキと直子と、ワタナベ君と緑と、永沢さんとハツミさんと、レイコさんの
性愛を巡る冒険譚なのです。

また、こうも言えるかもしれない。
「ノルウェイの森」は結局、情熱は消え去った
愛は冷めた・・・などと言わないための出逢い方を探るための恋愛小説。
ちょっと遠いでしょうけれど。

願うことなら、魂と魂とで人が恋愛をするなら、そんな性愛など描かなくても
恋愛小説が書けるのでしょう。でも、人間とは受肉し、肉化された存在です。
そうである以上、なぜ肉体を持っているのか、なぜ受肉したがゆえの
性愛が人生に存在するのか、そこを描かなければ人間を描くことにはならない。
人間の性愛を、その性愛を含む恋愛を描くことはできない。
(でも、天使だって天使なりの性愛はあるようですヨ^^:)

キズキが「気づき」のポイントと指摘しているサイトは
2014年11月25日現在、ネット上ではほかに見つからないようでした。
またヨーロピアンスタイルの本来の恋愛を描いていて、日本のレンアイ
とは違うという視点、直子の裸身顕示と女神アルテミス
(ローマ神話ではディアーナ)との関連もちょっと見つからないようです。

自分にとって大きな意味があると心惹かれる小説が
なぜ意味があると感じるのかを自分なりに読み解く試みは
「狭き門」(アンドレ・ジッド)、「贈る言葉」(柴田翔)に次いで
これで3作品となりました。
いずれも、もう目の前にやって来たと予感する初めての性体験を巡り
ためらい=こだわりを経て、無惨に失敗した敗者たちの物語です。
そしていずれも、世間の「読み」と大きく違うことに気づき、書き置きたい
と感じた舎人個人の「読み」です。
とはいえ、「ノルウェイの森」は一組の男女の敗北のうえに、いまひとつの
ちょっと異質の「レンアイ」型の男女が復活を果たしていくのですが。

個人の「読み」とは畢竟、感性です。
魂の在り方が同じ、と言った方がもっと正確に感じますが。
ともかく、感性が合う方は、このページの最初の方を読んだだけで
その方向性を理解するでしょう。
合わない方は、なんど読み返しても時間を無駄にするだけです。
文字ばかりとなることを避けるため、このページの前後の音楽、自殺者に
関係する音楽などを適宜、動画で挿入します。
 
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なぜなら、この「ノルウェイの森」という物語は「100%の恋愛小説」だから。
ただ日本式のそれではなく、とてもヨーロピアンな構造の恋愛小説。
作家、松井今朝子が直木賞受賞直後に読売新聞に発表したエッセーで喝破したように、
日本人のはレンアイなのです。西洋の恋愛とは実は似て非なるもの。
恋愛の本場、ヨーロッパでこの小説が書かれたという事情に作者、村上春樹がわざわざ
言及していますが、あの発言が示唆的なのは、レンアイなんかじゃない本物の恋愛を
描いたのだ、という作家ならではの主張が込められているからでしょう。

そして、それなら「レンアイ」というモノサシではなく、西洋型の「恋愛」
の理解というモノサシを獲得しないと、「ノルウェイの森」を間違った方向で
読んでしまいかねないわけです。
ちょっと小難しくカッコをつけるなら、恋愛のパラダイムが西洋と日本とで違う。
そこを重々承知のうえで読め、ということなのです。

ただし、普通のヨーロッパ人が日常的に体験している肉体の衝動に
つきうごかされているだけという恋愛(実は多分レンアイ)という意味ではなく
ヨーロッパ文化の精華といった文学、たとえばラファイエット夫人の
「クレーヴの奥方」、ジッドの「狭き門」といった小説で描かれた「恋愛」
もっとさかのぼれば麗しき貴婦人に見返りを求めることなく想いをささげる
中世騎士道 chevalier(シュヴァリエ)という意味。
もっと平たく言ったら、「ロミオとジュリエット」。
さらに下記の映画や音楽などにしのびこんでいる「恋愛」です。
もし正しい方向で理解できないなら、問われるべきは小説ではなく
読書する自分自身といった「ノルウェイの森」なのです。

ここからは、しばらく、「ノルウェイの森」を読み解くための
武器=アプリの必要性について。

その意味で、フランス映画「男と女」の中の挿入曲「愛はわたしたちより強い」
は、西洋型恋愛のひとつの在り方を示していて、「ノルウェイの森」の恋愛を
読み解くのに有効なひとつツールかもしれません。
なぜって、このシャンソンのタイトルが示している「わたしたち」と「愛」の
在り方が、まずレンアイと恋愛の違いとして特徴的だから。
そして直子が手紙でそれとなく触れていますが、「ノルウェイの森」が、その恋愛が
「分析的」に組み立てられているから、このシャンソンが読解に有効なのです。
恋愛に関して世界で最も厳しく、うるさいのはフランスの女性って、フランス人男性
と結婚した女優の寺島しのぶさんが語っていましたが。

映画「男と女」 愛はわたしたちより強い のページはここをクリック

「わたしたち」とは今、ベッドインまでしながら結ばれることができなかった
アンヌ(女)とジャン・ルイ(男)。「愛」とは、アンヌと、アンヌが死別した
夫(ピエール)との間ではぐくまれ、現在を生きるアンヌとジャン・ルイが
二人の愛を新しくはぐくもうとする時、思いがけずも介入して妨害した「愛」です。
日本的な「レンアイ」なら、自分たちの気持ちにかなり都合よく変形して、性的衝動
の前、、そんな逡巡など大きな要素となりにくいわけですが、この映画では1個の「人格」
と言ってもよいほどに思い通りにならない、確固とした存在で、時に顔を出して主張し
男を、女を、振り回すやっかいなヤツなのです。

もちろん、「愛」が二人に寄り添ってくれる時は、いい。
でも、ベッドインを邪魔した時みたいに、いい時ばかりじゃない。
ロミオとジュリエットだって、噴出してきた「愛」が、男、女よりも大きな存在となって
互いに自殺を選ばせてしまいますよネ。
だから、時に無理やりにでも、自分たちに「愛」を従わせる必要がある。
その従わせる意思の力が必要になるわけです。
そして、その意思の力を言葉や行動で相手に示す時
その恋愛ってカッコいい、ということになったりするのです。
欧米の恋愛のカッコ良さは、実はこの意思の力の発現のせいなのですね。

(この映画「男と女」では、列車よりも先回りしてプラットフォームに駆けつける
その意思と意外性=サプライズとして発現しました。
アッ、たとえば路チュー。しかも多くのケースで飲酒でという状況では、
酒で精神がマヒしているわけで、そんなもの情念の仄暗さすらありません。
ただイヌ、ネコ並みの欲望だったりするわけです。
キリッと美しさも伴う路チューは、他人の思惑や批判など、わたしたちの世界はそのような
外の世界と隔絶してある。わたしたちの想いは、他人からとやかく言われることはない、
という意思が働いていてブレないからカッコいいとなるのですが)

男と女と愛。三位一体で、どれが優位ということではない。それぞれが
頭を抜け出したり、ちょっと腰を低くしたりしながらも基本は三位一体。
男と女の想いがすべてで、流動することが多い想いといった
日本的な柔な構造のレンアイとは、絶対性などの点で一味も二味も違います。
日本人の心性には備わっていない、或いはとても薄弱なのが
この絶対性というアプリなのです。
「ノルウェイの森」「恋愛」ならではの見方・感じ方が必要なのです。

このシャンソンは、なぜ「わたしたち」がたった今、性愛を通して結ばれないか、
その理由を歌詞でも説明するために挿入されています。
ここをクリアせずに、普通の日本的な「恋愛」(実相はレンアイ)を基準に
読み進むと、なにやら性的な乱れが目立つポルノまがいといった
「ノルウェイの森」の「読み」になったりするようです。

もう少し具体的に「恋愛」と「レンアイ」の違いを比較します。
「愛はわたしたちより強い」の最初のヴァースはこんな意味です。
「わたしたちの過去を導き役にして
わたしたちははっきりさせるべきだった
でも 最終的なことに わたしたちは信じ合っていない
愛はわたしたちより強い」
On se devrait d’être lucide  が2行目のオリジナルで
わたしたちは明らか(明晰)でなくてはいけない が直訳です。
明らかという点が日本人には難しいところで、それを追求すると
メンドウなヤツってことに普通、なります。
だから訳文でも、 明晰でなくては とやらずに、はっきりさせるべき
と、日本人の感性にしっくりくる訳文としているのですが。ともかく
明晰であることが特徴のフランス文化とは、大きな違いです。

一方、日本側の例として近松門左衛門の
「堀川波堤(ほりかわなみのつづみ)」はどうでしょう?
「両手を廻して男の帯、ほどけば解くる人心、酒と色とに気も乱れ、
互いに締めつ締められつ、思わずまことの恋となり」

するとなんですか? 
そういう関係に具体的になってしまうのが「まことの恋」?!
じゃあ、イヌやネコや、アダムとイヴだって「まことの恋」になっちゃうの?

そうじゃなくって、西洋型の恋愛は、日本には夏目漱石や森鴎外、北川透谷らが
輸入したのが初めと言われます。漱石は I love you を「月が綺麗ですね」とか
(これ、刑事ドラマ「相棒」に使われて有名ですが)だったり、
Pity is akin to love を「可哀想だたぁ 惚れたってことよ」と
江戸っ子らしい勢いに翻訳したけど、さすが漱石ではあります。
ですが、感心しているだけでは困るのであって、そんな風にでもしなければ当時
日本人は I love you が全く理解できなかった
という大きな精神的隔絶が存在する事実を再確認すべきでしょう。
ナイトキャップを睡眠時用のキャップ(実際に存在しますが)としか
取りようがなくても、実際は、眠るために一杯ひっかけることですから、
そんな文化の違いによる言葉の意味の致命的な間違いを防ぐために
苦心の換骨奪胎を漱石は敢えてやったわけです。
そして実は、日本人は今も I love you を日本風な発想でした
理解できていない可能性が高い・・・。

ちょっと回り道をしてしまいましたが、西洋の「恋愛」と日本の「レンアイ」が
どれほど違うものか、おわかりいただけたかと思います。
(この違いが日本人の「狭き門」の読解を困難にするのですが)

そんなところで「ノルウェイの森」に戻ります。
再確認のために、もう一度書きます。
「ノルウェイの物語」の主役はワタナベ君ではありません。直子でもありません。
既に逝ってしまったキズキでもない・・・と言いたくなるほど
物語の前半で、ワタナベ君は右往左往してどうにも腰が定まらない。
後半も半ばを過ぎるころ、ようやく一見主役らしい存在感を持って
立ち居振る舞いが堂に入ってくるのですが。
恋愛小説なのだから、恋愛はテーマでしょう?という反論もあるでしょうが
テーマという抽象的な存在よりも、もっと身近で静かに、けれども圧倒的
かつ支配的に失われた「恋愛」が猛威を振るいます。テーマというより、
やっぱり主役でしょう。影に潜みながら強烈な存在感を持つ主役。

繰り返します。
主役というか、物語の影にひそんで、ワタナベ君やら直子やら
逝ってしまったキズキ君らを振り回したものがあります。
その全ての源は、キズキと直子が幼い頃から持ち寄り、
もう間もなく大人の愛へと育つはずだった、けれども結局育つ事に
失敗してしまった「恋愛」でした。
誰もがウブなときに持ったはずの「愛」なのです。
ちょうど映画「男と女」の構図のように。
日本型の「レンアイ」ではなく、西洋型の「恋愛」としての。

いや「男と女」と違って、「ノルウェイの森」では、
愛は傷つき、男(キズキ)も喪われたわけですが。
ですからその後、愛は亡霊のようなかかわり方で存在します。
そして直子の死とともに、永遠に消え去ります。
ワタナベ君には気持ちのうえで忘れ形見のようなものが残り
なにか物語を動かす原動力のような印象といった程度で
その存在を読者にあからさまにアピールはしません。
「愛」はひっそりと、ですが暴力的なほどの支配力で存在するのです。
直子の一見静かなたたずまいと比例するかのように。

主役は敢えて「愛」と書いてみました。
この小説に現れているより具体的な「愛」の在り方は、もっと直截に言えば
「正しい性愛」なのでしょう。ちょうど憲法のような大枠であるより
法律であるかのように、日常レベルで登場人物たちの心情と行動を縛り、導きます。
若さゆえの、とまどいゆえに不器用な、だからもっと言えば
「正しく叶えられない性愛」「うまく運ばない性愛」。

主役。育つべきだった 正しい性愛。
難しいことはありません。
初めては本当に好きな人と、本当に愛する人と、って思うでしょう?
そのことです。
それは少女マンガにだって共通する普遍的な願い。
ただそれを女性側からでなく、男性を構成上の主役=狂言回しに据え、
成功したことで、この物語が特別なポジションを持つことになりました。
男と女と。恋愛の在り方は随分違うといわれますが
本当に求めるべきは、実は同じところなのじゃないか?
そういう共通のスタート地点=原点を確かめないで、何が男女だ!
なにが恋愛なもんか! という試みなのです。

この主役は、育つことが許されず、永遠の沈黙へと沈んでしまって
今では姿を見せもせず、だから世間は何事もないかのように回っていくけれど
さながら台風の目なのです。
キズキの死それ自体はもうひっそり静まり返っているけれど
その周囲は大荒れといった様相を呈します。ちゃんと書いてあるじゃないですか。
「生のまっただ中で、何もかもが死を中心に回転していたのだ。」って。

直子とワタナベ君は最も気になっているキズキの死について敢えて語らず、
そんな風に肝心要の台風の目は語られないまま、直子の「混乱」ほか
大荒れのなりゆきが、ときにセレナーデをはさみながら、
もっぱら語られていきます。
それなら、直子の混乱はなにが原因なのか?
大荒れの原因がなにかを探らなければ、何も本当の姿を現しません。

台風の目のキズキの自殺。その自殺はなぜだったのかという理由。
「ノルウェイの森」とは、そこから溢れ出し、流れ出てきた物語なのです。
「ノルウェイの森」という物語の中の遠近法の消失点。
それがキズキの自殺なのです。
なのに、むしろキズキの自殺以後のことが書き記された小説。
物語のポイントがキズキの自殺ですから、
書かれたそのほとんどすべてが後日談という一面を持っています。
だから書かれたものの中に根源的な答えを見つけることはできません。
想像せよ! 核心は書かれていないものにある、というわけです。
死を招いた犯人は誰だ、何だ? というミステリー。

アンドロギュノスの球体ってご存じですか? 今さらで恐縮ですが。
二人してひとつ という恋愛ではごく普通に感じる陶酔感、完全性を表現しています。
ツイン・ソウルとかソウル・メイトとか言われますが、あれは、ごく基本的な
二人してひとつという感覚をビジネスユースで利用するため、現代風に
アンドロギュノスを焼き直した言葉です。基本的には、最新のものでなく
人類のずっと遠い記憶の中で、どの世代であれ多くの男女が経験してきた想いです。

アンドロギュノスという言葉自体は、プラトンが「饗宴」で描いた球体で、 
男と女、男と男、女と女 の組み合わせでひとつとなっています。
ところが増長してゼウスらに反逆するようになって二つに分割されちゃった。
この時から、喪われた片割れを求めて「恋愛」が始まったとされます。
英語の better-half  より良い半分 といったコンセプトの基礎です。
この切断面が、sex の語源などと言われます。significant の sig や 
segment の seg は、この切断面からやがて接頭辞として成立したといわれます。
同じことですが、中国では 比翼の鳥 連理の枝 となります。
比翼鳥とは、片方だけの翼と目を互いに持ち寄って一体となる鳥のことです。
玄宗と楊貴妃を描いた 長恨歌 で登場しますね。

二人してひとつの、その片割れ同士のあまりに早い出逢いはイケナイのでしょうか?
余りに恵まれすぎ、幸せすぎるから。
そうは思わないけれど、キズキと直子とでは、それは二人が
やっぱりアンドロギュノスだったという意味では当然なのだけれど
(作者はこれでもかというほどあちこちに、二人が将来のアンドロギュノスの球体で
あるエヴィデンスを書き込んでいます)
あまりに早く互いの肉体に慣れ親しんでしまうことは、愛の女神アフロディーテ
(ローマ神話ではウェヌス。その英語読みがヴィーナス)の禁忌に
触れる行為なのか? ヴィーナスは嫉妬してしまうのか?
いやむしろ、処女の守護神であり月の女神であるアルテミスが
まだ直子は私に奉仕するのだ。アフロディーテの出る幕ではない
と、ちょっと意地を張ったのか。
恋の苦しみという代償を奉納(=支払い)をしないから。

まさに直子は語っています。
「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」
「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わ
なかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君は
ああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ」
直子もキズキも、どちらも純粋培養された世界の住人です。
ワタナベ君と緑は、雑多な世の中でもまれながら成長する日本によくかるカップルなのですが。

哀しみに切なく胸を焦がすことも、悲しみにどっぷり浸ってしまうことも
ある意味、恋する者の特権だけれど、こうした告白以前の苦悩はキズキと
直子の間にはありません。ショパンが第二協奏曲について「悲しいことに
ぼくはぼくの理想を発見したようだ。この半年、彼女の夢を毎晩見ているが
ぼくは彼女とまだひとことも口をきいていない。彼女のことを想って
ぼくはぼくの協奏曲のアダージョを書いた」(第二楽章。コンスタンツィヤ・グワトコフスカ
への想いを込めた第二楽章は実際はLarghetto。概して女性ピアニストより、男性奏者の演奏の
ほうが想いにまっすぐに浸って行ってるように聴こえて興味深い。後に指揮者となった
アシュケナージの演奏のなんと素晴らしいこと!)とか、松田聖子が「赤いスイートピー」
で歌ったような「知りあった日から半年過ぎても あなたって手も握らない」
といった憧れ方=アクセスの仕方は、キズキと直子は持てないのです。
早くから手を握り合うような、ごく自然に肉体的接触が可能だった二人なのですから。

F. CHOPIN:Concerto no.2 op.21 – II Larghetto – Krystian ZIMERMAN  ツィメルマン

どうにも、屈託のない、明るいあどけなさと仄暗いエロティシズムは、互いに反対のコンセプトのようです。
欲望ってヤツは、ひそみ、隠れることができる暗闇をどこかで必要とするようです。
実際、明るくて元気のいい可愛い女性に、どうにもセクシーなアピールを感じない
なんてことがままありますね。

まさしく直子の肉体は、セクスアピールを欠いていたのです。まさしく、ほかならぬキズキには。
そしてキズキから影響を受け、その心と体験を部分的に分かち合うワタナベ君にとっても。
キズキほどでないにしても、やはり充分に深刻に。(でも第三者にはとても魅力的なのに)
そしてその深刻さは、直子自身に跳ね返るのです。翳りを持たない肉体。セクシーではない肉体。
呼び声を持たない肉体。代わりの魅力となるコケットも妖艶さもない正統派の美しい肉体。
pathetic 悲しみ パセティックを通り越して apathetic 無感動 アパセティックと
なってしまった肉体。こうなるとクールビューティの肉体は悲劇を封じ込んだ冷気の塊さながらです。
(しかしと敢えて異説を唱えれば、明るい情欲だってあっていい、あるべきとも思います。
隠れるところのないあまりにあけすけな肉体だって神秘をまとってほしいと、願わないでもない。
日本では夜ですが、フランスは朝が性のための時間です。彼らのほうが確かに明晰なsexに
近いのでしょう。エリュアールの詩句にありますね
「シーツの下で すべては明るい」)

もう少し卑俗な言い方なら、こうです。エッチなビデオは日本でもアメリカでもあるわけですが
ある有名人のお笑いモンスターが、アメリカのエッチビデオは面白くない、なんか感じない
みたいなことを言っていました。あけすけで、sex とはいえ、フィジカル(身体)な要素だけじゃ
どうにもコーフンしないというのです。
ま、キズキと直子も、レベルこそ違え、そうしたあけすけすぎる、性と呼ぶにはあどけなさすぎる
性という弊害に毒されたわけで。

フィジカル的な要素だけが明晰というわけではなく、もちろん精神に於ける明晰も大事ですが
明晰な恋愛なんかは、普通の能力しか持たない人間には、むしろ苦痛であり、
不幸のもとでもあるでしょう。高すぎる理想のようなものです。
Amor cuerdo , no es Amor
キューバの建国の父と言われる José Martí ホセ・マルティ の詩句です。
正気の愛 それは愛ではない という意味です。
肉体でか精神でか、どこか適切な隠れ家となる仄暗い情念を持たないキズキと直子の恋愛は
あけすけな、あからさまな、秘密のない肉体を持ってはいたけれど、熱狂や狂乱を呼び起こす
オルタナティヴな魅力を持つ肉体ではなかった。そんな肉体を、恋愛を持つことはできなかった。
しかし熱狂で自身を失うほどの恋愛のほうが、普通の人間にはずっと幸せなんですね。
普通の人間には。

そしてキズキが逝った後。
直子やワタナベ君らの世界はヴェルレーヌが「秋の歌」で書いたように、
Et je m’en vais
Au vent mauvais  といったところ。まさに
無惨な風に吹かれた Au vent mauvais のです。台風のような。
正しい恋愛 = 性愛の相手を失った直子は、以後、さすらうしかなく
身近なワタナベ君を含めてすべてを無残の風に巻き込みます。
直子にとって恋愛とは、いつか訪れる性愛であることが自明と疑ってもいないでしょうから
そんなことを決して願ったりしたわけではないけれど
あどけないノーひとつで、キズキを死に追いやり、もはや気づかないうちに不
可能性の範疇のものとなってしまったのです。
物語は、それでも自分に可能な恋愛を探し、やがて絶望という結論に至る
直子の姿を描いていきます。おとぎ話のように素直でナイーヴな恋愛が破壊されたときの無惨。

恋愛は不可能な設定となってしまった。
世間は、レンアイゆえのSexを、そのまま恋愛と思いこんでいる日本社会。
一番にわかってくれなくてはいけないワタナベ君も、内省的な一面はありながら
(キズキほどの過度の内省的ではなく)、ゆきずりの名前も知らない
小さな女の子とそんなことができてしまう俗物です。
いざとなったら自分の殻に入って都合の悪いものはスルーする能力を持っていて
(だからこそキズキと世間を結ぶ役割=仲介者になると、意識しないままキズキが
友人として欲したのではないでしょうか?)
そんな世界で、一人取り残されてもがいた直子。そんな世界を無意識なまま
あっち側へ行きこっち側へ来ていたワタナベ君。
直子とワタナベ君たちの世界は、まるで陰画のような様相を帯びて
ヒトに与えられたアダムとイヴのような、本来の健やかな恋愛 = 性愛の
世界を失ってしまったかのようです。

直子だけは実体そのままですが、ワタナベ君やレイコさんなど主要な役割を演じ、
さらにちょっとしたキズキとの共通性を持っていたり、影響を受けることが
可能な者はカタカナで記され、つまり、現実の実体感を失って記号化されてもいる存在です。
実体そのままの本来の姿ではありえなくなっているのです。
どのような性を生きるているかで、記号化されたりされないという区別。

(それとは違う、実体を持つ者の代表は、永沢さんでしょう。あの人は自己を
確立していて揺るがない。一人でひとつの完成形で、アンドロギュノスなんか
関係ないみたい。他者を必要としないちょっとカワイソウな存在なのです。
あくまでも強気な永沢さんだけどね。彼なりの弱みがあっても、それは
外に出さない。それが永沢さんなりの美意識であり、彼のスタイル。
ハツミさんを評して「俺にはいささか良すぎる」だなんて、
フィリップ・マーロウかリュウ・アーチャー・・・やっぱりマーロウか。
さらに「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」だって、
まさにハードボイルドでしょ?
彼はスタイリスティックで、そのくせ本当のヒーローではないから、その
スタイルが結局、ワタナベ君からも拒絶され、実体だらけの世間で
彼をジワリ傷つけていくのです。
ハツミさんをワタナベに、なんて悪ぶったけれど、実は永沢さんがハツミさんを
アンドロギュノスの片割れと素直に認めていたら、シアワセな結末を描けたことでしょう。
彼もひどいボタンのかけ違いをする男です。

ついでに緑は、片割れとして十分すぎるほどに確固とした存在で
実際、緑はワタナベ君と二人、裸で向かいあわせにくくられてひとつという
シーンを、アンドロギュノスを恐らく知らないままに語ります。
まさにそのイメージこそアンドロギュノスのイメージだということに、ご注目ください。
緑のギザギザピリピリの切断面とフニャフニャボワワのワタナベ君の切断面は、
きっと相性がいいことでしょう。
ま、緑はちょっと自分の切断面をヒリヒリ意識しすぎるけどネ^^。しかし・・・
その切り口で人生を読み解いていくのは、ひとつの有効なメソッドです)

ワタナベ君に即して言えば「そのかたちを言葉に置きかえることができる」と
思っている、爽やかな語り口の男。17歳の5月に死を選んだ友人の恋を
自分のことじゃないけど、こんな「恋愛」に出会ったと語ることができる存在。
核心の近くにいる部外者と言ってはなんですが、近接点にいたリポーター
であり、狂言回しといった役どころ。なぜなら「私(直子)と外の世界を
結びつける唯一のリンク」だから。
もっとも狂言回しを主人公と定義する読者なら、疑いようもなくワタナベ君を
主人公として構わないかもしれません。

正しい恋愛、と書きました。
正しい恋愛って何だ? と、疑問が起こるのは当然でしょう。
ですが単純なことです。だれもが通過してきたものかも知れない。
上述の通り、それは初恋のころの、この人だけ、この人と永遠に 
といった感覚です。語るも気恥しいけれど、本当は真正面から取り組むべきもの。
ピュアな想い。永遠の愛。永遠の愛の誓い。
だから、なにが正しいか? とは、まさに正しい恋愛の相手ということなのです。
この正しい相手というコンセプトは、直子だけでなく、主要な登場人物に
共通する問題=課題でもあります。試練とも慈愛ともなる雨は、公平に降りかかります。
それは鍵穴と鍵の関係。まさに互いが互いだけを対象とする関係。
それが正しい相手だという証拠。
でも、どうやって証明するの?
ロミオとジュリエットみたいに、死ねばいいの?
純情とは殉情だとばかりに。

確固として二人してひとつの球体であることが、正しい相手同士である証明。
だから二つの片割れとも、ほかの者と球体の完成を求めても無駄なのです。
互いが互いに求め合う間違いない存在だから、絶対なのです。
ほかの人が一時的な球体の完成を願うような一時的な、また別の恋人が現れる
ような、そんな流動的なレンアイではないのです。絶対性が特徴なのです。
キズキに完璧を強いて振り回した絶対性、直子が後悔しながら気づいていった絶対性が。

直子は「どこかの部分で肉体がくっつきあっているような」と、ワタナベ君に説明します。
まさにアンドロギュノスですね。だから性とは自然で
「間違ったことをやってたわけじゃない」という言葉そのままに当たり前のこと。
「まるでお互いの肉体を共有しているような」まさに、アンドロギュノス
の球体の片割れ同士だったのです。
それは普通の(世間的なという意味で)恋人とは違い、だからこそ
世間のわからんちんの視線を考慮して「恋人のような関係」と
へりくだって見せるけれど、実はもう前世からの宿命のような結びつき。

たとえばフランスのミレーヌ・ファルメールは、自分たちが
アンドロギュノスの球体でなく、ただの泡だった悲しみと無念を
フレンチポップスとして歌っています。
歌詞でアンドロギュノスの球体がどう使われているか確認するには、ここをクリック

キズキと直子は、そのアンドロギュノスの球体となるべき片割れ同士だった。
「殆ど生まれ落ちた時からの幼なじみで、家も200mと離れていなかった」ほどの縁。
三つの頃から一緒に遊び、直子がはじめての生理のときに、わんわん泣いた相手。
それだけでアンドロギュノスの球体であることが肯定できそうな条件です。
詩人、エリュアールは C’est à partir de toi que j’ai dit oui au monde.
君と出会ってからなのだ わたしが世界にイエス(ウィ)を言ったのは
と書いたけれど、「初めての出逢い」という衝撃がないほどに
キズキと直子は宿命的な出逢いなのです。
そしてこの衝撃のない初めての出逢いでなかったことが、キズキの死に
つながっているようなのです(後述)が、とにかく事実は
キズキは直子を残して自殺してしまう。
それは、直子もキズキも互いに、アンドロギュノスの球体の片割れ同士では
なかったという証拠?とも疑いともなってしまいかねない。

では直子にとっての片割れは誰なのか?
その片割れを求めて、直子はさすらいます。
ワタナベ君かと思ってみて、「私たちまた会えるかしら?」と探しているのです。
それはキズキが自殺することで、ぼくじゃない、とノーを言ったから。
・・・ですが見つからない。
ワタナベ君を含めて、誰も正しい片割れでない証拠ばかりを見せてくる。
直子は初めてだったのに、ワタナベ君は既に経験を持っている。
誰でもいいわけではないから、その傾向を少し持っているけれど
やっぱり直子の片割れではないことを示す大きな具体的事実です。
レイコさんと「レスビアンごっこ」をしたのは、じゃあ女性との「恋愛」
が正しいのかと試してみるしかなかったからなのでしょう。
アンドロギュノスには 女性と女性 といった組み合わせもあります。

しかし、こんなにあっさり迎えることができることで、キズキを失ったのか。
経験してみれば、肉体は既に準備できていたことを知った。
性の歓びがあることだってさえ、今なら・・・わかっている。
キズキと直子の二人がいかに互いを求め合う存在だったかという点について
作者は背景にアンドロギュノス神話を用意していることがわかるけれど、
直子の肉体がどうしてキズキを迎え入れることができなかったかという点については
背景となる根拠を明瞭には描いていませんね。唯一、レイコさんの、プロにも
なれそうなピアノを弾く手のその小指が、医学的になんら根拠がないまま
動かなくなってしまった事実を、まるで全然別のエピソードを装って
アルペジオ(分散和音)のように、書いているだけです。
(ギターらしいアルペジオがイメージされますネ)
肉体が勝手に言う事を聞かない。
どんなに烈しく熱望しようと、どんなに真剣な祈りを捧げようとも・・・。

直子は絶望します。やはりキズキだったのか、と。(その通りです)
ワタナベ君では到底ないと思い知って、身じろぎもできず、体を硬くしたまま。

しかしワタナベ君はなんとトンチンカンな手紙を出したことでしょう。
直子でなくても、これだけ的外れだと、返事に困ります。
しかも、初めての男性であることの権利のようなものを
どこか自然にまとってしまっているようで・・・と、直子は感じたかもしれない。
何にもわかっていません。やっぱり、ワタナベ君じゃないのです。
そして、やがて直子もまた・・・。

直子もキズキも自ら死を選んでしまう。
直子の自殺は結局、キズキの自殺が引き起こしたもの。
なぜって、やっぱり正しい片割れは、キズキしかいない
と最終的に直子がわかってしまったから。
この世では、正しい恋愛の相手はもういない。
そんなキズキを、わたしは死に追いやってしまったのだ。
贖罪感よりももっと大きく、そんな絶望が直子を襲ったのです。
過去のキズキとのあれこれ、訪れたはずだった失われた幸せが、
そのまま重荷と変わってしまったのです。
つまりすべては、その理由が小説で語られていない
キズキがなぜ死を選んだか、彼が苦しんだなにかの苦悩から始まっている。

キズキとはレンアイではなく、生まれながらに恋愛の素地をかなり濃厚に
持つ男だったのではないでしょうか?
しかも、あまりに生真面目で不器用。一見、如才なく社交的にも振る舞えるけれど
実はかなり内省的な部分がある存在ではないかしらん?
その結果として、うまいこと自分を、自分と直子を
大人の恋愛=性愛 へと導いていくことができなかった・・・。

キズキはなぜ、自殺を選んだのか?
二人して、ポールとヴィルジニーのように、素直に、健やかに
幼いころから愛をはぐくんでいたのです。ヒトという自然のままに。
ひとつの愛のおとぎ話ですね。
しかし、大人になることも自然であり、生きている以上、必然です。
キズキはもう肉体的に大人になってしまった。
男より成長が早い直子はなおさらに。その効果は、直子自身
にではなく、キズキに、直子の女をキズかせることでより明らかです。

そしてキズキは或る日、直子に求めたわけです。
当然のように(でも内心ではおずおずと)表面的にはとても気軽でフランクに。
なんでも話せてしまう幼馴染に対して。
ところが・・・叶わない。性愛を通して二人が結びつくことが拒絶されてしまう。
直子とひとつになれないことに、キズキは奇妙と思い、最後は絶望を抱いたかもしれない。

となると、ぼくの欲望は祝福されていないのか?
そんな欲望は、わるいものではないのか?
直子との間を隔てるだけのものなのだから。
初めての性体験は、キズキと直子には、叶わないほうがずっとおかしいのです。
それで、不審はあらぬ方向へ、よからぬ方向へ跳んでいったりします。
ぼくは直子を、直子との過去を欲望で汚してしまおうとしたのか?
それでいいのか? 欲望とは汚らわしさになってしまっている。
それは愛ではないだろう?
それを自分に許すのか? それを直子に強いるのか? 
二人の関係に介入させるのか?
それでも、お前は最終的に、直子に肉体を求めたいのか?
願いすぎるのがいけないのか? あまりに過剰な自分を押し付けて・・・。
「何だって喜んでやってあげよう」と、
直子は直子で思っていた、その柔らかな直子に。

しかしキズキの変貌は二人の関係の変化を招きます。
今まではずっと無邪気に一緒にいる楽しさをエンジョイしていた、そのままの
パピーラヴ puppy love(子犬のようにじゃれ合うほほえましい初恋)。
直子の意識はキズキを迎え入れていた。では、無意識は?
すごく楽しい関係だったのに、オトナになれって言うの? キズキ君!
そりゃ、わたしだって、いつかはと考えたら
キズキ君とだと思ってる。でも、どうして今なの?
まだピュアな想いで、楽しい毎日が過ぎていくじゃない?
どうして、そんなことを求めるの?
このままでいようよ。ピュアで、いいじゃん!
そんな無意識が直子になかったか?
肝心な時に、立ち止まってしまう直子の肉体。

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