狭き門 ジッド 3 処女妻

有無相生ず。
陽は陰の内に生じ、やがて陰を逐(お)い、
なお再び陰のうちに収まります。
陰もまた陽の内に生じ、
同じ経緯をたどって陽と和合します。
二つして一つ。
どちらも片方だけで成り立つものではありません。
(陽とは天の気、陰とは地の気なのだそうです)

光と影は、光なくして影と分からず、
影なくして光と知ることはありません。
エロスも同じです。
外へ向かう受肉ゆえの情動も、内へ向かう受肉ゆえの反発も
どちらも不即不離の関係です。それはエロスの陰陽。
なのに、もっぱら受肉ゆえの
快楽に奔る情動ばかりをエロスと思いがちです。

Sarah Le Carpentier  サラ・ル・カルペンティエ
Message Personnel  個人的なメッセージ(告白)
アルディの方がいいのかも知れないけれど。

でも、受肉されたことに心安らかでなく
自分が受肉されたことを赦(ゆる)したくない
そんな風に情動を否定したい気持ちもエロスなのでしょう。
アリサは受肉されていることを厭わしく想い
朝露を飲み、霞を食べて生きたいと思いもしたかもしれません。
そんな感覚・・・・。

「狭き門」で、ジェロームを熱望しながらも自らの人生を
閉ざすかのように振舞うアリサを見てきました。
アリサに見る否定されるエロスこそ陰であり、
多くの人にとって極めて自然に肯定されているエロスは陽
と見ることはできないでしょうか?

Waleska  ワレスカ
Tudo Acabado-Lembranças-Nunca  
翻訳は セクシーな歌 ワレスカ のページで。
歌の意味を知りたい方はご検索ください。

フランスの心理小説の系譜では、「狭き門」のように、
結ばれることがないことで 、ロマンとして成立する作品があります。
むしろ、結ばれないからこそ
美しさをまっとうできたと言ったらいいでしょうか。
フランス風の忍ぶ恋ですね。快楽を重視する世俗的な幸せより
恋愛の美しさを至上とする感覚です。
三島由紀夫が影響を受けたと言う「クレーヴの奥方」です。

Dalida ダリダ
Voila pourquoi je chante

ひと目で相思相愛の男女にして、最後まで本当にキスさえありません。
宮廷随一のダンディであったヌムール公が、
熱愛してしまった当のクレーヴの奥方に向かい、
一般論のように装って、自分の想いは
全く経験したことのない新しい恋のし方なのだと知らせます。

「女のひとはふつうの場合、男の恋の強さをば自分のご機嫌のとりかたとか
自分にいいよってくる熱心さで計ります。しかしこういうことをするのは、
相手がすこしでも感じのいい婦人だったら、われわれ男にとってむずかしい
ことではありません。むずかしいことは相手につきまといたい誘惑にうちかつ
ことです。自分の気持ちを世界のひとびとに、いや、恋の相手のひとにさえ、
あらわに見せまいとその人を避けるようにすることですよ」

で・・・美女を得るのは厚かましい男。
俗に言われるとおり。誘惑されるままに振舞える男。

Roberto Carlos  Você não sabe 君は知らない

「好きな人に、好きだって気持ちを見せたくないって、そんなんおかしいじゃん」
って思われる方は、どうにも感覚が違いすぎて、ごめんなさいです。
きっとなんの疑問もためらいも覚えることなく
当たり前の恋愛として、自身を性愛に投入できる方なのかもしれません。
大多数の方が普通にそうだろうと思います。

ここでひとつ、確認しておきましょう。
アリサもジェロームもジュリエットも
想いの対象はいつも1人だけに向かっているのです。
誰かスペアをキープして、なんて考えは論外です。
二股なんて、思いつきもしない想い方なのです。
1人だけにとどまらない傾向のある方は
「狭き門」を自身の話として感じることは
できないのではないでしょうか?

Léo Ferré  レオ・フェレ   Requiem  レクイエム

肉食系からはまさに正反対ですが。そこまででない人には
わかりにくい感覚なのかもしれませんね。
現代的じゃない、なんて思うかもしれない。
でも、惚れた腫れたならイヌとかネコでも、します。
イヌやネコになくて人間にあるのが高度の自意識です。
その自意識こそ、やっかいな聖性というヒトの属性の出発点です。
ヒトが他の動物たちとは同じではないことを示す
どんな時代であっても大切にされるべき聖性なのだ
と、信じたいものなのですが。

Léo Ferre  レオ・フェレ  Love  

性的衝動に限るとしても、ヒトをイヌやネコと並べては失礼ですが
だからこそ並みの人間では容易にくぐれない「狭き門」なのです。
快楽に身をゆだねるほうがずっと楽だし、楽しいもの
その存在に気づいても敢えてくぐろうとしない「聖である門」
まさにその「性という門」なのです。
力を尽くしてだけでは入りえない
選ばれた者の前にしか姿を現さない「狭き門」。

ヌムール公の未体験の恋愛方法論は一体どうしたことでしょう?
恋が快楽で彩られるよりも、真実で彩られたいと願ったのですね。
真実の恋でありたい。いや、これは真実の恋である。
そのことによって、奥方への恋はまた善であり、徳である。
その証明として、これまでもっとも安易に行動するのが常だった
その原因としての肉欲を封じてしまおう。

Charles Dumont シャルル・デユモン
Ta cigarette après l’Amour 夜明けのタバコ

そんなものがなくても、この恋は成立するのだと証明してみせよう。
だから、クレーヴの奥方に会いたい誘惑にも打ち克てる。
自分の気持ちを知っていただくなんて、どうでもいいこと。
知ってほしいという気持ちの底に見返りを求める気持ちが潜んでいるのは
卑しく、うとましい。永遠の片思いでいい。

見返りを思うことで、この恋を欲望で汚してしまうことなど
許せないことなのだ。 これまでの恋愛とは違うのだ。
イヌやネコと同じ列に加わらないことで
奥方への愛を絶対のものとしよう・・・
(快楽に身を任せるほうが楽なのに、ネ)と、
自ら聖別しようという気持ちが働いています。

だって獣じみた春情のネコなんざぁ、当事者はともかく
第三者から見れば、浅ましく、はしたなく、気持ち悪い事おびただしい。
あからさまに行為を恋い願うなんて本能ばかりで美学の欠片もありゃしない。
そんな合コンとか交流会とか、御免こうむりたいところ。
理性を持つ人間としての恋とは何か? を求める気持ち=求道が
聖別された恋愛への道なのでしょう。キビシイいんだ。

Luigi Tenco ルイジ・テンコ  Ho capito che ti amo 愛の目覚め

クレーヴの奥方は17世紀末ですが、それが時代精神ということでしょうか
ほぼ同時期、シンクロニシティが日本で起きています。
18世紀初頭、鍋島藩(佐賀県)で成立した「葉隠」です。
曰く、「恋の至極は忍恋と見立て候。逢いてからは恋のたけ低し、
一生忍んで思い死することこそ恋の本意なれ。
「恋死なん、後の思いに、それと知れ、
ついに洩らさぬ中の思いは」この歌の如きものなり。
洋の東西に関係なく、忍ぶ恋、至純を大切にする想いってありますね。
(葉隠の場合、女性への思慕は主君への思慕と重なるのでしょう。
おかしいことではありません。ひたすらに誠実にあることに
なんの違いもないのですから)

無意識に、いつかは欲望の成就を願っているくせに、ヌムール公の胸に
至純な想いが打ち寄せます。
この辺が恋の最も偉大なマジックかもしれません。
あるいは、大いなる錯覚かもしれませんが。

황수정 ファン・スジョン 
그런 사람 또 없습니다  そんな人はまたといません

好きな異性の前で赤くなってモジモジしてしまう。
遠くから見かけるだけで胸がドキンと騒いでしまう。
そんな経験を持たない方はよっぽど少ないと思います。
それは、ただ初心(うぶ)なせいかもしれませんが 
初心さの奥底に、意識せぬまま、性によって相手と
このうえもなく溶けあってしまうほどの可能性があることにとまどい、
過度なほどの親密さに至りかねない関係に直面させらるという
羞恥はなかったでしょうか?

その無意識のうちに、何があって、あわてて逃げ去りたかったのでしょう?
その気持ちは、ヌムール公の「恋の相手のひとにさえ、
あらわに見せまいとその人を避けるようにする」気持ちに
繋がっていないでしょうか?

それはアリサの想いでもあったでしょう。
「白状しましょうか?ジェロームが今夜来るとわかったら・・・
アリサは逃げ出すでしょうよ。おお!お願いだから、この・・・
気持ちの説明を求めないでください。私はただ自分が絶えず
あなたのことを想っていると知っています(これであなたの幸福に
十分のはずでしょう?)そして、私自身はこれで幸福なの」

Nicola Di Bari ニコラ・ディ・バリ
Se potessi amore mio   恋人よ、できることなら

「狭き門」のアリサを絶望的なまでの深い内省へといざなったのは、
恐らく、母の父への背信でしたでしょう。
父の幸せを不完全なものとし、家族の調和を乱す要素は、
アリサだけでなく誰にとっても排除すべき要素です。
ジェロームへの想い。その想いは、想いに止まるなら、
この排除すべき要素とは無縁なのに。

だからヌムール公のように、受肉されたゆえの欲望で
この恋愛が彩られることがない、
敢えて見返りのない、欲望とは無縁の真実の恋愛を求めてみよう。
そんな純粋な愛を捧げることこそ、輝かしいジェロームにふさわしいのだから。

このアリサの想いは、或る意味では正当に報われるのです。
ジェロームがジュリエットと後日談のように語り合う終章で
二人はこのように言葉で確認しあうのですから。
「では、そんなに長い間、希望のない愛を心に保ちうるものだと
思っているの?」「そうさ、ジュリエット」
ジェロームも、見返りを期待して人を愛する人ではないのです。
二人の絆を思えば、当然なのですが。

Léo Ferre レオ・フェレ La tristesse  悲しみ

でも、ジェロームが望むなら、わたしは欲望という罪を背負ってもいい。
それをジェロームが望み、ジェロームが幸せになるなら。
けれども、それでも、やはり、ジェロームにふさわしいのは
真実の愛ではないのかしら?

わたしがジェロームと欲望を共にするとしたら、いつか、母のように
わたしがジェロームを裏切らないと断言できるでしょうか?
たとえ、わたしが裏切りに至らないとしても、やがてジェロームが、
わたしの中に母のような裏切りに繋がる欲望を見るとしたら・・・。
もし、受肉の喜びを受け入れるにしても、長い結婚の日々のうちに、
ジェロームに幻滅を与えてしまうのなら?
いいえ、ジェロームが普通の男性だなんて、ありえないこと。

Carmelo Zappulla    Questo Grande Amore この大いなる愛

ジェロームを輝かしいままとする方法はただひとつ。
この想いを抱いて一歩も動かないこと。
欲望から沸き起こる衝動では動かないこと。
想いだけが純粋で、清らかなのだから。
そうすればジェロームは汚されることなく、
わたしたちの想いも美しいままのはず。
わたしたちの恋愛こそ、清らかさで彩られるでしょう。
絶対性と永遠性を勝ち得た完全な愛であることでしょう。
その時こそ本当の意味で、この愛が聖別されるはず。

「おお!私たちのふたりの魂を、愛の力によって、しかも
愛を超えたところまで導きえますように!」

Maurizio Pollini  マウリツィオ・ポリーニ
Schubert シューベルト: Drei Klavierstücke, D. 946
第2曲:Allegretto

聖性と獣性に引き裂かれ。
普通の人が普通に幸せな人生を送るための
普通の性愛が受け入れられないアリサ。

神から離れ、自立していった人間。
草食男子といった現象の一面は今また
恋愛が肉体から離れていくという傾向の出現なのでしょう。
恋愛は、想いは、それ自体で存在するようになる。
恋愛の美学はもはや、必ずしも肉体を必要としない。
肉体は美しいけれど、時に醜い。なによりも性的な本能のせいで
コントロールの埒外になるとか、面倒だ。
アリサはそれでも、肉体を、ジェロームの、そして
ジェロームとともにあるべきアリサ自身の肉体を必要としたけれど。
人類の歴史の、恋愛史の・・・過渡期。ひとつの黎明期。

Ornella Vanoni オルネラ・ヴァノーニ 
Naufragio  難破船

その際立った萌芽のひとつが
フランスでのトルバドゥールの伝統です。
見返りを求めない、つまり欲望の対象とはせず
ひたすらに愛と憧憬を高貴な女性にささげる騎士道の愛を
トルバドゥールはハープをかき鳴らしながら歌いました。

堀田善衛氏の「路上の人」によると、
「騎士にして、わが欲する所のみを為すと誓わば、
夫に代りてわが胸に来(きた)らしめん」であり
「いやはての愉悦はたとえ無くしても、羞(はじら)い多き
われらが裸身の抱擁を。そは愛と無私の忠誠のしるしなれば」
とあります。

それはコンテンプラツィオーネと呼ばれる「愛の最高のミサ」で
「プロヴァンス地方やオック後の話される地方(注*南フランスのこと)
の騎士だちが、崇拝し渇仰(かつぎょう)する貴婦人に
最終的に許される儀式」とあります。
具体的には「美しき体躯に口づけを許される」もので、しかし
「ただ一つの業(わざ)を除いて、その欲するすべてはなされた」
というもの。貴婦人による「コンタンプラシオン(裸身顕示)の次に
騎士たちに許されているのは試練(アサーグ)」といった次第です。

恋愛は結婚のあとに。もっと正確には、結婚して後継者を生んでから
と12世紀の南仏で恋愛法廷 Les cours d’amour が開かれ
女性たちが自らジャッジした伝統が、こんな妥協の産物のような
コンテンプラツィオーネという<裏ルール>となったのでしょう。
それは男系社会の維持という既存の社会秩序に貢献するための女性の
譲歩であったでしょうが、借り腹という形で女性蔑視が保存され。
助長されたとも言えないでもありません。夫も妻も、裏では愛人がいて
スキャンダルにならなければいい、といったウラの顔の伝統が
ダイアナ妃の悲劇の背景にあったような気がします。

肉体はこんな風に扱われる歴史が西洋にあり
その歴史の先端に、あるとき、アリサの肉体はあったわけです。

PLACIDO DOMINGO  プラシド・ドミンゴ
YO SERE TU PRIMER HOMBRE  君の初めての男となるだろう

アリサの想いは、敢えてまた触れずにおけませんが
堂々巡りの悪循環でもあります。現世的な意味で、ですが。
受肉されたこと、肉体を持って生まれた意味が
否定的に捉えられています。その時
悲恋に殉じることに酔っているのではないか?とか
さまざまに自分を試し、自分の思いが自身を含めて
何物に対しても誠実であり、嘘のないものと
何度も検証を繰り返したはずです。

しかし、神は、否定させるためだけに
アリサを受肉させ、誕生させたのでしょうか?
そんな風に思わなくても、ありよう次第では
肉体は清らかであり得るはずのに。

푸른하늘  プルンハヌル 青い空
사랑그대로의 사랑  愛 そのままの 愛

かわいそうなアリサ。アリサの孤独な想いは、けれども
聖性への憧れというエロスのもうひとつの顔を見せていてくれるのです。

アリサは本当にジェロームに恋をしていたと言えるのでしょうか?
人間という存在が併せ持つ聖性と獣性の間に引き裂かれてしまったけれど
それでも、やはり、アリサなりの方法で恋していたのだと思います。
恋愛の不可能性の側から見た方が近いくらいの恋の在り方。

アリサのためには残念だったけど、神が存在しようとしまいと
人間の中にある聖性と獣性、それゆえの自問自答と葛藤が
「狭き門」が近代的精神のありようのひとつを描いた
恋愛小説だ、ということなのでしょう。
アリサの心に寄り添うことは、現代文学の重要なテーマである
恋愛の不可能性が潜む扉の前へと導かれることでもありました。

Brahms Intermezzo ブラームス 間奏曲  Op 118ー2
Lupu  ラドゥ・ルプー

そして 性 とは、人類の未来のあり方を示す
重要なキーワードなのかもしれません。
アフリカのボノボ(ピグミーチンパンジー)は他の個体と
何か緊張関係が起きそうになったとき、素早く近づいて
性的関係を結ぶのだそうです。オス同士も、ペニスフェンシング
という行為(容易に想像できますね)で、気分はスッキリ。
コミュニケーションの有効な方法として 性 を利用するわけで
これが注目を浴びているわけです。

そんなあからさまなというか、率直で素朴な性のあり方は
なんか禁断の木の実を口にしてしまう前のアダムとイヴの
在り方のようだな、なんて感じていたら
ボノボはアウストラロピテクス(猿人)と似たような文化を
持っていたとの説もあるんだって。やっぱりねぇ、です。

ウディ・アレンの映画「それでも恋するバルセロナ」では
sex は欲情の所産よりも、むしろ自身の存在を確認し、
魂のふれあいを求めるツールのように描かれてもいました。
ノーマン・メイラーは「北回帰線」で、20世紀はsexの時代
(19世紀はロマンの時代でしょう)と印象付けましたが
21世紀の性文化を象徴するキーワードはコミュニケーション
なのかもしれません。

Billie Holiday   ビリー・ホリデー  I’m a fool to want you

春と聞かねば知らでありしを
聞けば急かるる胸の思ひを

唱歌「早春賦」の三番の一節です。
恋愛という騎士道にふさわしい細やかな神経など持ち合わせず、
欲望ばかり肥大した大概の男どもはさておき、
日本の女性にとっての恋愛とは、
こんな 春 であることも多いのでは、と疑ったりしています。
恋愛なんていう言葉を知らなかったら、恋愛ってナーニ?って
一生、無縁のままで終わる女性って、素質的に多くないですか?
だから昔の女性は人柄も顔すらも知らずに嫁ぐことができた。
それで結構、幸せに生涯を終えることができたのでした。

イヴ・デュテイユ
Hommage au passant d’un soir  或る夜の通行人へのオマージュ

平和な日本では、恋愛は、ビジネスの要素にすら取り込まれ、
聞こえようと聞こえはしまいと、見ようと見まいと、
至るところで レンアイ、レンアイ って吹き込まれてしまう。
それで、いつか自分にも訪れる春があるのだと自然に思ってしまう。
生まれたときから吹き込まれたら、それはもう、刷り込みです。
刷り込みによるレンアイは、幾度であろうと、誰とであろうと、
どんな足し算や掛け算をしても所詮、レンアイのままでしょう。
鉛や銅は、どんな錬金術を以ってしても金にはなりません。

同じようにレンアイも恋愛にはなり得ません。
精神構造が伝統的に違うのです。
西洋では恋愛は文学の本道ですが、中国では古来、
「済世経国」、もう少し平たく「修身治国平天下」が
文章の本領です。ひるがえって日本でもこの流れを
引き継いでいます。恋愛とか人事など、低級なものとされていました。
源氏物語も今とは大違いで、その評価は限定的でした。
また茶席の掛け軸に、恋愛モノなどありえませんね。

余計なお世話だし、ひどい言い方ですけど、どんなに言い張ろうと
とても西欧型の恋愛に至ることができない人は
日本社会の中で案外、少なくないのではないでしょうか?

Patxi Andión   Viejo Amor

西洋型の恋愛と日本のレンアイ(作家、松井今朝子氏が
読売新聞に寄せた原稿で使った表現です)の違いは・・・。
それは、女性の名誉を守ること、つまり秘密を守ることが第一。

17世紀初頭の作家、ブラントームは 艶婦伝 に
恋愛にあって男性が守るべき 3つのS
trois S. S. S. がある、と書きました。
sabio solo segreto です。
男は賢く振舞い、ひとりで行動し、秘密を守る ということです。
男は黙ってブラックホール、というわけですね。

それなのにモテ話を放言したがるのは、愛情とはまったく関係ない
男の虚栄心のせいです。これは女性を落とすハントであって
愛情ではないでしょう。こんな男を信じてはいけないし、信じた女性も
見る目がなかったのだから自身が悪いということになります。

Leonard Cohen   レオナード・コーエン
Take this waltz

もちろん、日本人の男だけがペラペラしゃべりまくるわけでもありませんが
sabio solo segreto という意識はあまり確立できていないみたい。

もっともダイアナ妃がチャールズ皇太子に幻滅し、別居して
真の愛情をもとめるようになった時のことは悲劇です。
つきあう男はみんな特別な色眼鏡で見て、彼女との恋愛を
勲章のように考えたようです。西洋でも、ダメな男はダメなんです。

勲章ならまだいい。そうでなかったら・・・お金。
最も愛したという乗馬教師なんか、あられもないところまで書いて出版し
大もうけしています。

유재하 ユ・ジェハ  사랑하기 때문에 愛したことのために

ダイアナ妃はインタビューで正直に内容を肯定し
と同時に失望を語っています。その表情は暗く、悲痛を感じさせました。
彼女を普通の女性として扱い、普通の女性として愛を感じ
普通に結婚まで考えたのは最後の恋人の外科医だけだと言われます。
つまりこの外科医は身体を隠してケンジントン宮殿へ通い
彼女が多めにつくってもらった食事を二人で分けたりしています。
つまり、シェフにも秘密だったのです。

Richard Harris リチャード・ハリス
Proposal プロポーズ

松田優作と薬師丸ひろ子が主演した映画「探偵物語」で、
薬師丸が、ばあやで実は父親の愛人の岸田今日子に
どういう関係?と問いかけますが、岸田は語ろうとしません。
どうしてと問うお嬢様に対し、岸田は「言うと減りますから」と
シレっと答えています。映画館では失笑もちょっと起きたのですが、
実際、そうなのです。なにかが失われるのです。

Ivan Lins Paulinho da Viola
Saindo de mim

ま、男が自慢や計略をたくらまなければ、結構、秘密は保たれるようです。
秘密の扉の向こうでなら、安心して羽を伸ばしてやりたい放題、
バレなきゃいい、というのも、なんだかなぁという気がしますが。
とにもかくにも、むか~~~しから、世間体は取り繕って
女性としての名誉を保ち、安全を確保したうえで好き勝手?
とも言えるのでしょうか?女性の率直な意見をうかがいたいところです。

(世間体というか、意識してかせずしてか、女性って
どうしても、ほかの女性たちと位取りをしてしまいがちなようです。
いい服を着ていたとか、あの毛皮すごい、子供の学校も凄いとか。
相対評価に命をかけると、ひどいママランクとかスクールカースト
が生まれ、誰だって幸せになれないでしょうに)

Simone e Paulinho da Viola  シモーニ & パウリーニョ・ダ・ヴィオラ
Retiro 隠れ家

むしろ想いは淡いほうほうがいい。そのほうが別れを避けられるから。
今東光の「お吟さま」にある歌です。
「人と契らば浅くちぎりて末とげよ 
   もみじ葉を見よ 濃きがまず散る ものに候」
世間知ですね。お吟さまは「情知りよのお」と反応しています。
映画では「わたしにはできぬことじゃ」だったかな
胸に抱いた高山右近への想いは激しく、濃いものでした。

まず添うてみよ。
結婚を勧める死語のような言い回しですが、
こうした正面からぶつからず、時間が解決するというやり方は、 
とても日本的な解決法です。お得意の調整型と言ってもいい。
バブル崩壊のような経済事案でも、結婚といった生活面でも、
日本の世間知はこんな風に、時間を稼ぐというか、
うまく時間と言う要素で激変緩和を図り、現実を馴化させてきました。
ヨーロッパの恋愛、そして結婚の中には絶対がありますが
明治になってようやく恋愛というコンセプトに触れた日本社会は
ヨーロッパ式の絶対の神の介在によって結ばれる恋愛・結婚をまだ
明確に持つには至っていないようです。
もちろん、ヌムール公の洗練と明晰も持てていません。

Cora Vaucaire コラ・ヴォケール   L’écharpe スカーフ

そう言えば、こんな小唄もあります。
添ふてもこそ迷へ 添ふてもこそ迷へ
誰もない 誰になりとも添ふてみよ

花婿が誰でもいいだなんて・・・。でも
それが日本人が恋愛というコンセプトと
出逢うまでの常識でした。
それは現代でもなお、生活の中に実は生き残っています。

Serge Lama  セルジュ・ラマ  Les Ballons Rouges  赤い風船

一方、キリスト教の神は、
そんな絶対性を欠いた縁結びなど、しやしませんね。
政略的な結婚はヘンリー8世ほか、多数ですけど。

神よりもジェローム。男。
ヨーロッパの歴史は中世以来、時間さえも支配していたキリスト教の
神から離脱しようとした歴史、と言えなくもありません。
「狭き門」も文学にあって、いかにも信仰篤い思いや言葉を
散りばめ、当時の社会常識の範疇の問題と見せかけて
実は、脱宗教を目指した精神の近代化を
描いた書でもあるようです。そして
ニーチェ以来、神は死んだようだし
アウシュヴィッツ収容所体験者のフランクル(「夜と霧」)は
神は存在するが、ただ見ているだけ といった意味を書いているけど
介在こそしないまでも、それでも今だに、
神の思し召しは現代に生きていたり、そこここで
思わぬところから顔を出すように、思えたりもします。

MÁRCIO FARACO & NANA CAYMMI ナナ・カイミ
TU SAIS JE VAIS T’AIMER – ( EU SEI QUE VOU TE AMAR )
あなたを愛してしまいそう –

昭和三十年代の小津安二郎監督の映画の中で、
恋愛結婚をしたいと言う若い岩下志麻が、父親役の男優から
「そんなふしだらな娘に育てたつもりはない」と叱責されています。
見合い結婚で添い遂げる。
女性の感情教育として、それが当然であり、大多数でもあった時代。
それで社会はうまく回り、女性もおおむね不満の声を上げたりはしません。
レンアイや恋愛などなくても、添い遂げることができる感情生活だったのです。

Tania Libertad タニア・リベルタ Sin La Luna 月はなく

自身の存在理由をかけて憧れたり、突然、炎のごとく燃え上がらなくても
言われたまま添うているうちに、恋愛感情なにものぞ、日々の安定した生活と
穏やかな思いの裡にすべてが収まります。こうして見れば、
遠い祖先から受け継いできた日本人の精神風土は、
狭き門でのアリサの l’amour とは
今もなお、なんと遠いところにあることでしょう。
日本人の性の享受は、妊娠のための服までつくって
快楽を排除しようとしたスイスのカルヴァン派の性のありかたと
なんと隔絶していることでしょう。ありがたいことですが。

Léo ferré  レオ・フェレ 
Géometriquement tien  幾何学的に君の体は

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