狭き門 ジッド 5止 エリュアール

芭蕉と弟子の凡兆がこんな連句を交わしました。
 さまざまに品かはりたる恋をして    
         浮世の果は皆小町なり (猿蓑集 巻之五)
上の句が凡兆、受けたのが芭蕉です。

流れ流され漂泊の、その最果ての成れの果て
卒塔婆(そとば)小町とはなお、哀れとも言いがたく。
とどのつまり。奥州は極楽寺門前に、されこうべをさらす小町。
花のようなる小町への終(つい)の手向けは
そのされこうべから頭を出すススキの穂です。
色情無残。花の色はうつろって
彼女の恋とはなんだったのか?
(勝手に、わたしの人生をあれこれと。。。と、小町は怒ってる?)

聖書の言葉。( 箴言 31章30節、読み方は「しんげん」)
「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである」
そして続きます。「しかし主を恐れる女はほめたたえられる」
小町はいったい、何を恐れたらよかったのでしょう?

Zizi Possi  ジジ・ポッシ
That’s All I Want from You
和訳は ジジ・ポッシ  That’s All I Want from You
のページで。意味を知りたい方は、ご検索ください。

日本人の恋愛における精神構造が
「狭き門」と比較して
いかに離れているかをみてきました。
言い換えれば、日本的読みに無意識のうちに
陥りかねない危険性を測るための回り道でした。

不安遺伝子を持つ人の割合が高く
世界で一番、不安に陥る民族といった
日本人ならではの特性がいろいろあることでしょう。
ジッドが描いた、あるいは作者の意図以上の本来の世界を
日本人にありがちな解読で都合よく解釈し、間違った「狭き門」像を
みてしまわないように気をつけて読み進めないと。
(日本人ならではの「狭き門」像も価値はありましょうが)

Francoise Hardy   フランソワーズ・アルディ
Until It’s Time for You to Go 別れの時まで

シャンソンを聴いていて思うことは、日本人は本当に
「恋愛」に向いていないということ。
恋愛を歌っているつもりで、実は「愛欲」を歌っているだけ
ということが多いようです。
そんなことになる原因を、日本人の心性に求めるとしたら
日本人は関係性についてあれこれ言うことが嫌というところかな?
ゴチャゴチャ、うるせぇってなっちゃう。

わたしとは何なのか? わたしにとって、あなたとは何なのか?
あなたにとって、わたしとは何なのか? わたしたちとは
わたしたちにとってどんな意味があるのか? あなたにとっては
どうなのか?・・・etc・・・etc・・・。

スペインの作曲家。フリオ・イグレシアスやジャネット
ホセ・ルイス・ペラーレス、ロシオ・フラードら有名歌手に
作品を提供し、プロデュースもしてとwin-winの関係でした。

MANUEL ALEJANDRO  マヌエロ・アレハンドロ
CUANTOS AÑOS    何年も

この関係性を問い続けていくことが面倒で、
普通の日本人にはウザい、キモいになっちゃう。
そんなことより、一緒にいることが大事。
それで愛し合っていて、楽しくて幸せなら
それでいいじゃん、何が文句なの?
作家、松井今朝子氏が言うように、日本人の恋愛は
「レンアイ」と表現したほうが、やっぱり実情に合っているようです。

もちろん、フランスだって、気楽に快楽におぼれるほうがいい
と思っている人は圧倒的に多いでしょう。女性の不倫の多さにも、
その傾向が現れています。しかし、たとえ少数によってではといえ、
その国の文化の精髄は確実に引き継がれ、受け継がれていきます。
それが、たとえ苦痛を伴うとしても明晰を求めてやまないフランス文化の
伝統というものなのでしょう。
(日本人は、明晰であるより、知らなくていいことには敢えて目をつぶって
当面の幸せを優先するという、世間知重視の文化かな)

無思想の思想と半ば自嘲し、半ば誇りにも思っているけれど
誕生とともに自動的に氏子となり、初詣に出かけ(神道)、クリスマス(キリスト教)
を祝い、仏教による葬祭儀礼で生涯を閉じることに矛盾を感じない日本人。
柔軟と言うべきか、無節操と言うべきか、「絶対性」が価値を持つキリスト教や
イスラム教、ユダヤ教の伝統を持つ人たちと、人生も恋愛も大きく異なる様相と
なることは、むしろ当然なのでしょう。

Benabar べナバール
Je suis de celles   わたしはあの人たちの1人

とは言え、日本にでも西洋型の恋愛が芽生えて始めて
いないわけでもないでしょう。漱石・鷗外から100年です。
三島由紀夫はもちろんですが、たとえば 塚本邦雄。
 馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで 
           人戀(こ)はば人あやむるこころ
と詠いました。
この秀歌には、恋に絶対性を見出したい気持ちが見られるのでは
ないでしょうか? 絶対性と永遠性を求めて、恋する魂は迷い、さすらいます。

 露の世のそのたまゆらの神遊び 戀の火の色浅き夢みず
                     よみびとしらず
この短歌は塚本邦雄「遊神圖」のその書名の次のページに
掲載されていますが。どうも彼本人の創作ではないでしょうか?
あえて「詠み人知らず」を装うことで雅趣を添えるとか・・・。
浅き夢みず に近代性を感じます。

ちなみに舎人が感じる日本のいい女 ナンバーワン は鎌倉時代初期の
式子内親王ね。百人一首の 玉の緒よ もいいのですが
数ある秀歌の中で、まずボーっとなったこの歌を紹介しておきましょう。

 忘れてはうち嘆かるる夕べかな
         我のみ知りて過ぐる月日を

Amália Rodrigues アマリア・ロドリゲス
Meu Limão De Amargura  わたしの苦いレモン

さて聖性と獣性の相克はフランス文学の好きなテーマらしくて
バルザックは「谷間の百合」で、全編にわたって論考を展開します。
「この地上の愛を、サン=マルタンが宇宙の生命であると説く神の愛の姿
にまで近づけようとする努力には、またそれなりに甘美な思いがひそんでいるのだ」
ほかにも、抜書きできる箇所が満載ですが。

 
恋愛は西欧は南フランスに発し、いまだ日本に十分に根付いてはいません。
充分に恋愛を体得できず、だから恋愛が持つ毒にも余り当たらず
日本型のレンアイを発達させている途中だけれど、好きという邪心のない
気持ちの初源でなら、マリアージュ・ブラン的感覚であっても
日本も西洋も紙一重の違いのように見えます。
その紙一重がとても遠としても。
分度器の根元なら隣り合わせでしかない
1度足らずの角度の違いが
100億光年の想いなら、どれほど見当はずれの
場所に導かれてしまうことか。

Charlotte Gainsbourg シャルロット・ゲンズブール
L’un part l’autre reste  一人は出て行き もう一人は残った

小心者で卑怯者で不道徳なあのドリアン・グレイですら
「ふいに僕は、彼女を初めて会ったときの花のような姿
のままにしておくことに決めたんだ」と最後は、
マリアージュ・ブラン的感覚に立ち返りました。
人を好きになる原点のどこかに、この聖らかなものを
求める感覚がひそんでいるのです、きっと。
なにかの拍子でスイッチが入るか入らないか。
西洋型恋愛では比較的、スイッチが入りやすい。
日本型レンアイでは、ちょっと入りにくいという
事情の違いがあるだけで。

より美しくありたいと聖性を求めるとき、獣性を持つ
自分が、まず自己分裂しかねないという恋愛の毒に
当たってしまったアリサは、処女性の象徴である
バラのアナグラムのように rose → sore(痛み) → eros と
展開はしなかったけれど、至上の美しさを持ったroseであったでしょう。
でも、一人の幸せを求める人間として
いったいどうすればよかったのでしょう?
同じではないけれど同等の美しさを持ったエロスは
叶えられなかったのでしょうか?

ジョルジュ・ムスタキ  Georges Moustaki
TU M ATTENDAIS 僕を待つ君
イザベルという女性が歌っています

自身に厳しすぎたアリサですが、一歩も二歩も三歩も踏みはずせば
刑事マルティン・ベックシリーズ第一作「ロセアンナ」での
犯人の心情となってしまいます。もちろん、アリサは
他者に向かう凶暴性など持っていませんから、本質的には別物です。
日本書紀に出てくる武烈天皇の八年春三月の醜聞は
またちょっと違う感覚だと思います。
(武烈天皇は雄略天皇の血を引く最後の天皇。崩御後、混乱し
結局、現在の皇室につながる継体天皇が即位した、との話が
あります。夏の桀王、殷の紂王といった役割を与えられていて
だからこその暴虐ぶりだったと書かれたものか)

Maria Bethânia マリア・ベターニァ  Feiticeira  女魔術師

否定の果ての、その深奥の一条の光として、理趣経には
「触清浄句是菩薩位」といった見方・感じ方があります。
性とは清らかなもの。それは菩薩の境地。
都合よく受け止めると江戸期の邪宗、立川流に堕しますけどね。
欧米では既成の価値観に行き詰まりを感じ、
東洋に新しい智恵を求める人も多いけど
アリサはプロテスタントとしての神を選択していますから
理趣経は関係ないとしても・・・。
でも、性愛も「清浄歓喜」なものとしてありえることが出来る。
充分に神の恩寵の中にあると信じることができていたなら・・・
どうだったでしょう?

ほかのページでも書いているのですが。
歌人、吉野秀雄の絶唱です。

 これやこの一期の命炎立ち せよと迫りし吾妹よ吾妹

読みは、いちご、ほむらだち わぎも です。

一週間後に亡くなることになる病床の妻、はつ が
看護婦(当時)がいなくなったとき、夫の吉野に迫ったのです。
そんなことをしたら体にさわることぐらい、妻も夫も承知です。
それでも、吉野秀雄は断ることができませんでした。
あなたも命を燃え立たせてください、と文字通り死を覚悟して迫る妻に
いまさら、体に悪いから、いけない、などと一体、言うことができるでしょうか?
あるいは常識人なら、なんてことをするのか?と
咎めさえするかもしれませんが。

Maria Bethânia  マリア・ベターニァ
Sonhei Que Estava Em Portugal – Anda Luzia
ポルトガルにいる夢をみた~アンダ・ルジア

そうまでして願う肉体による魂の結びつきとは
いったい、何なのでしょう?
これを肉欲とか欲望などと言ってよいのでしょうか?
Sex とは、いったい何なのでしょう?

こうした、個人に於いての性のあり方は
美しく顕現することもあったのですが
日本人はどうも、性について真面目に?
考えてはこなかったようです。

男子たるもの国家を論じ、天下を憂うことはあっても
恋愛とか、ましてや色好みなど論考の対象にあらず
といった姿勢です。述志があるべき姿勢で
恋愛とか物語は二級以下。面白くても軟文学でしかありません。
これは中国渡りの伝統ですね。中国の詩人たちは
閨秀(女流)詩人を除いて、恋愛の詩など書きません、
あえて題材には採らないし、採るべき対象ではありません。
日本でも平安時代。教養の第一は漢文であり、ひらがななど
土佐物語の冒頭ではありませんが、本来、評価の対象外です。

そんなコンセプトが日本の伝統となりました。
恋愛などを相手にすると、むしろ格が下がるとなったわけです。
物語は、筆のすさびで、それが男性なら余技扱いです。
恋愛花盛りの現代を当てはめて価値判断を
すると大間違いとなります。世話物の近松は、あれは現代では
一流の文学ですが、当時は軟弱な読み物でしかありません。
むしろ滝沢馬琴こそ、大作家なのです。現代からすれば、
荒唐無稽なストーリー展開で、それだけで文学的価値は
品下がるわけですが、一応、天下を論じていますから。

Mendelssohn  メンデルスゾーン の「無言歌」から
Venezianisches Gondellied Op.30ー6  ヴェニスの舟歌

先に「恋多き女」という言葉に比べて「恋多き男」は
耳になじまないと書きましたが、こんな伝統が
背景にあったわけです。日本人が、恋愛、性、sexについて
いまひとつ、正面対決をしてこなかったことが
西洋の恋愛との隔絶を生んだと結論づけても良さそうです。
「狭き門」は日本人にとって、やはり、どれほど
「遠い門」でもあることでしょう!

第二次世界大戦でイギリスを勝利に導いたチャーチル首相はまた
ノーベル文学賞を獲得した感性の持ち主です。
こんな名言を残しています。
Immature love says, I love you because I need you,
mature love says, I need you because I love you.
未熟の愛は言う 君が必要だから わたしは君を愛する
成熟の愛は言う 君を愛しているから わたしは君を必要とする

Maria Bethânia マリア・ベターニァ Ciclo  歳月

I want you とは中学生にだってわかる 僕、君が必要だ です。
ですが、ニュアンスはどうでしょうか? 
want とは 欠乏 の意味もあります。immature 未熟 なのです。
つまり、そう言って結ばれることを願い、露骨に言えば、ベッドに誘うとき
わたしには君が欠けている というニュアンスが隠れています。
でも、不足の愛ではなく、敬愛と優しさが溢れて外に現れるほどに
満ち足りた、成熟した mature な性愛なら・・・。

フランス人タレントが言っていましたが
「Sex は頭でするものでしょ?」。
そうなのです。もちろん、肉体があることは前提ですが
肉体でするよりも、むしろ、もっと頭で行うもの。

ただ寝転がっているだけの、いわゆるマグロ状態の肉体とでは
そんな行為など、つまらないでしょ?
sexy とは自分を与えようとする意思。
どのように自分を与え、奪うかと言う意思。
与え合い、奪い合う意思の交換。

PATXI ANDION パツィ・アンディオン
20 Aniversario…Palabras  結婚20周年 言葉

心を尽くして mature な愛を与えようとする恋人の存在は
なんと美しく、幸せなことでしょう。
二人の、二人による、二人のためのニルヴァーナ(涅槃)空間。
二人だけのミクロコスモス(小宇宙、宇とは時間、宙とは空間のこと)。

禁断の木の実を口にするまでは、アダムとイヴにとって
性 とは自然(じねん)でした。その後、性はヴァリエーションを増やし
ジッドの時代、男と女、そして背徳的な同性愛があったのでしょう。
(バイロンの時代、死刑になったケースモありました。
チャイコフスキーは、それで自殺を強いられたとの説があります)
今、同性愛はさまざまなありようがあるようですし、中には
日替わりオネエというあり方も登場しています。
ユニセクスとかモノセクスという言葉を見かけることもあります。
あらゆる愛のあり方を擁護したジッドも、想像がつかないかもしれません。

Suely Costa スエリ・コスタ
Amor é outra liberdade  愛はもうひとつの自由

そんな社会の変化に合わせるように、性染色体のレヴェルでは今、
オスの染色体は、いつメスの染色体に一体化されても
不思議ではない状況にきているそうです。
オスは消え去る運命なのでしょう(大切にしてね^^)
恋愛だって変化するのは当たり前です。
草食系の登場は、変化の段階にあることの証拠のように見えます。
現代のアダムとイヴにとって、 性 とは、もはや自然ではないのです。
アリサが100年以上も前、苦しんでしまったように。

この変化の時代にあって、性 は自らが
選び取るものになっていくのかもしれません。
つまり 性 とは、再発見し、再獲得するものと
なりつつあるのかもしれません。

「ボレロ」で知られるラヴェル・ラヴェル(1875 – 1937年)は、アリサと同時代
(「狭き門」の刊行は1909年)の人間で、自身の感覚をこのように語っています。
Mais est-ce qu’il ne vient jamais à l’esprit de ces gens-là que je peux être artificiel par nature ?  しかし、わたしが生まれついて人工的になり得る人間の心だって
彼には絶対、思いつかないのか? 

アダムやイヴの原初と明らかに異質な人類です。時代の精神が変わってきているのです。
そしてライト兄弟によって人類が地上を離れて大空へ飛び立ったように
人類の性愛は史上初めて原罪からの本格的な離陸・解放を試行し始めたのです。
解放へと進んだ性愛革命を受け入れた人は多いけれど、純化し、新たな輝きへと向かう
性愛革命もあるのです。それは前者に比べて、個人にとってよっぽど難しいし、稀だけれど。
I want you が、わたしはあなたが欲しい=わたしはあなたを欠いている
から、もはや欠落することなく、むしろ満たされることで実現される性愛を把え始めた
Sexの革命のその最先端に、アリサはいたのでしょう。
それはひとりの女性にとうてい耐えられる重荷ではなかったわけです。

Charlotte Rampling シャーロット・ランプリング
Comme Une Femme Regarde Un Homme  女が男を見つめるように

日本人の恋愛・結婚観を表す HIJK (作家 LiLy氏)は、エッチ(H)して愛(I)が生まれ
ジュニア(J)が出来て結婚(K)という時代風景として、伝統的価値観を墨守する旧世代を
呆れさせ、苦笑させ、驚かせましたが、なに、そんなものは倫理観というメッキがはがれ、
いやむしろ伏流水が表に出てきただけのことか、古代の歌垣の精神に戻っただけでしょう。
その日本には国民レベルでは、古代も現代も、精神性が希薄です。
対してフランス文学の世界での恋愛は精神性が確固としてあって、むしろその欠落が特徴である
日本の精神文化とは、これまで見てきたとおり、程遠いわけです。
にもかかわらずヨーロッパ社会も国民レベルでは、違う経過をたどりつつも、結果としては
「でき婚」が異常事態ではなくなっているわけで、その意味で、やはり、
「狭き門」が現代で書かれるはずがありません。
もはや現代を映してはいないのですから。

しかし、アリサはその精神の重さにつぶされてしまったわけで、
現代にあって、今も精神と肉体の程よい調和を実現できず
苦しむ現代人が存在していることでしょう。ヨーロッパであれ、日本であれ同様に。
「狭き門」の現代的意味は、そこら辺に存在するのでしょう。
現代にあって、アリサと同様に苦しむ人たちのなんと誠実なことでしょう。
不器用だけど、なんと愛されるべき人たちであることでしょう。

Mozart モーツァルト
Ave Verum Corpus, K.618.  アヴェ・ヴェルム・コルプス

万葉集の時代、恋は孤悲と書かれたことがりま。孤悲の元々は
魂乞(たまこい)だったと言います。魂が乞う。魂を乞う。
そのうち魂が取れて、乞う、やがて恋うとなったといいます
しかしアリサの魂は何を乞い慕ってさまよい出たのでしょう?
何を恋い慕っていいかわからなくなって、結局、何もわからなくなってしまって。

モーリス・ブランショは「期待 忘却」(1962年)で「わたしはあなたが、あなたの最も
無表情かつ無感動なところでわたしを愛してくれたらと思うのです」と書きました。
アリサ(「狭き門」は1909年)が現代に生きているなら、そんな風に表現したのかもしれません。
生まれたのが100年、早かったのです。
現代に生を享(う)けたのなら、同じ感覚を持ち、ちゃんとそれを意識している者も
少数とはいえ、確かにいるのですから。
だから、それほどには孤独ではなかっただろうし
それなら他者の在り方を見て、アリサも分析的に自己を見つめ
自分自身を理解することができて、自分もよくわからないまま
衰弱していくことなく、もう少し上手に人生に向き合えただろうに。

フランスの詩人、エリュアールは、
肉体を、新たに許されたものとして再発見します。
それはきっとアリサが手に入れていたら性愛を自らに
赦し、だからジェロームと結婚することができただろう
聖(きよ)らかな肉体であるのかもしれません。

Françoise Hardy – Voilà
翻訳は フランソワーズ・アルディ ヴォワラ のページで。

また話はそれますが、中原中也が「汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる」と書いた
欲望まみれの青年期ならではの窮屈で、
いびつで、でも潔癖ではある肉体の持ち主による純愛ではありません。
(あの詩句は、欲望で汚れてしまったという悲しみ
と読み解かれるべき、と思われます)

精神の成熟をも意味する、欲望の浅ましさから遠い
聖なる肉体による恋愛。
そんな風に、二人を耀かしく結びつける肉体に支えられて
アダムとイヴの愛とは次元の異なる
調和の取れた愛そのものが立ち現れます。
それはフランスの詩人、エリュアール。
願我心如智慧火 というお経の言葉がありますが
まさに智恵の火によって清められたような心。
そんな心が持つことができる
性愛が、聖なる愛へと清められたような言葉でした。

相愛でありながらアリサの結婚の不承知とは、当たり前と捉えられていた
自然の一部としての性への異議申し立てでした。
自然が、いや、天が与えた性愛を自明のことと受け止められなかったアリサ。
ランボーだったか、愛とは再び発見すること、と書いたけど
アリサは性愛を再発見することができず、愛の迷路の中で疲労して果てます。

仏教の維摩経(ゆいまきょう)の維摩の娘の話として仏説月上女経(がつじょうにょきょう)
があります。光の中から生まれ、長じて絶世の美女となりましたが、次々と現れる求婚者に
無理難題をつきつけて彼らの願いを退けてしまいます。トゥーランドット、かぐや姫と
同じですね。トゥーランドットなど、なまじな肉欲でわたしを見てはいけない。
命を懸けて正当性を証明できない欲望など赦されはしないという設置です。
肉欲の否定という萌芽はまれにではあっても、実は至る所で、普遍的に存在するわけです。

アリサは近代ヨーロッパに現れた かぐや姫 で、肉体による愛を、肉欲の愛を
忌避する性質を生まれ持っていた、と言って言えないことはありません。
まだ途中であるとしても、アリサが心の底から納得できる愛ではないかもしれないけれど
より肉体の穢れから離れようとしたエリュアールのような愛で妥協することができたなら・・・。

イヌやネコのような本能に突き動かされた肉体的欲求でなく、アダムとイヴのような
自然そのままの営為でもなく、I want you と欠けた存在であるが故の希求でもなく
もはや罪から逃れ出て、満たされ、輝かしい性愛。
舎人は、そのエリュアールの詩句に出会って初めて
性に対して Yes と言うことができたのですが・・・。
そんな詩句たち、を。

Françoise Hardy   フランソワーズ・アルディ
Ma jeunesse fout le camp   もう森へなんか行かない

ひとつを除いて高村智氏の翻訳によります。

このわたしの肉体は ひとつの牢獄ではないのだ
Mon corps n’est pas une prison

地上の肉体と肉体は 知恵の掟にほかならない
かれらは 愛することと愛されることの
権利を獲得した
Les corps terrestres sont des regles de sagesse
Ils ont conquis le droit d’aimer et d’etre aime

Françoise Hardy  Rêve  夢

オリジナルはブラジルの歌です。
スラングで sexual intercourse を意味する A Transa
というタイトルを、フランス語で 夢 というタイトルに変えて
アルディは告げています。まるでオラクル(神託)のように。
確かに変えてはいますが、アルディの本意がオリジナルのまま 
あなた=sexual intercourse とするなら・・・。
ちょっと試しに読み替えてみてください。

あなたは わたしを驚きで満たす
ついには現実となる夢のように
そして あなたは わたしを傷つける
その中でわたしを目覚めさせるしかない夢のように

愛が夜に 洗礼をほどこすだろう
わたしたちのはだかの肉体のいろをした 
あたらしい名前でもって
L’amours baptisera la nuit
De nom nouveaux a la couleur de nos corps nus

夜のなかで しずかなくちづけ
もっともおもくるしい暗影がにげてゆく
Un baiser calme dans la nuit
Les plus lourdes ombres s’enfuient

ぼくたちの在り方 ふたりして肉体でつながり 大地につながる
ふたりして全てから生まれ ふたりして限りない存在 (舎人訳)
Nous sommes corps a corps nous sommes terre a terre
Nous naissons de partout nous sommes sans limites

あふれるベッドの中、きみの肉体はいまシンプルなのだ
Dans le lit plein, ton corps se simplifie

この白いシーツの下で なにもかも明るいのだ
Tout est clair sous ce drap blanc

フランソワーズ・アルディ    Star

                

苦しんだアリサだからこそ
そんな豊かさ、シンプルさ、そして透明感を
肉体にイメージしてほしい。 
精神よりも軽やかに、肉体はまた、
行き詰まった重苦しい 想い=愛 を解き放つ
出口でもあったはずなのに・・・。

そうなのだろうけど、それでもなお
そうは思い至れないこともあって。
死の床にあって、アリサのかたわらに
主はいたでしょうか?
ジェロームの想いは付き添っていたでしょうか?
「あなたがまだ愛しているというアリサは
もうあなたの思い出の中にしかいない」

アリサ、辛かったね。

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