狭き門 ジッド 4 読書感想文

「崇拝されるより、欲情されるほうがはるかに幸せだと思う」
中山可穂の「白い薔薇の淵まで」の一文です。
崇拝を排除し、欲情に特化し、単純化されていく幸せ。
恋愛とレンアイの、少なくとも表面的な違いを、
端的に示しているかもしれません。

小難しい文学などではなく、小中学生が読み始めるカナダの「赤毛のアン」で、
19世紀の古風な恋人は、崇拝者 adorer と表現されます。

João Gilberto ジョアン・ジルベルト
Estate  エスターテ 夏
翻訳は 星の王子さま ジョアン・ジルベルト のページで.
歌の意味を知りたい方はご検索ください。

つまり、崇拝は欧米にあって、大衆の恋愛沙汰の中に根付いているわけです。
日本で、男性が、女性に、崇拝していますと書き送ったら
女性はひょっとして感動するのかな?
でも、男性の同性の友人が聞いたら、何を文学趣味で気取っちゃってとか、 
何か女性をカネにするための言葉のワナか、とかロクな目にはあいません。

中山可穂は「体を交わすごとに欲望は昇華され、あとには切実さだけが残った。 
だから抱き合えば抱き合うほど、わたしたちはせつなくなっていった。
純愛はあとからやってきた」などとも書いています。

Serge Reggiani  セルジュ・レジアニ
Le temps qui reste 進まぬ時

言葉でなく、体で最もよく語り合う恋人たち。
そういう形もあるでしょう。
でも、言葉でも体でもよく語り合う恋人たち、にはならないかしらん?
日本人にとっては以心伝心が一番。言葉は究極、邪魔者かもしれません。
中山可穂の作品は4冊ほどしか読んでいませんが、
知る限り、人は肉化された以上、
欲望は自明なものとして描かれているようです。

自明、つまり当たり前、というなんとも無邪気な肉欲の在りようは、
智恵の果実を食べる前のアダムとイヴとほぼそのままです。、
それは、性愛を拒み、聖なる愛へと
汚れない天上での愛(天上の愛ではなく)を夢みて
わが肉を削るようなアリサと、ある意味で対照的です。
(そのような夢では、アリサは救われないのに。
アリサはわかっていません。天上で叶えられる愛でなくとも
自身の肉体に新しい見方をして、肉体を再発見できていたら
アリサは聖らかな性愛を地上で実現できていたはずなのに)

バーンスタインがウィーンフィルを振っています。
Mahler Symphony No.3   マーラー;第3交響曲 
とくに25分ほどかかってしまう 6mov. 最終楽章を。
オリジナルの楽譜にははじめ
「愛がわたしに語ること」と副題がありました。
ガリ・ベルティーニがN響を指揮したパフォーマンスが
キリッとして、また豊かにニュアンスに富んでたまらないんだけど。
エンディングなんか、アリサの死とイメージが重なります。
彼女の死は、女性の小さな胸の中の出来事だけど
壮大な討死と言っていいのかもしれない。

七面倒な恋愛より、歌垣で会ったその日に・・・の速攻の恋。
遠い遠い神代の昔から、日本人にはむしろおなじみのワンナイトスタンド。
必ずしも永遠を願ってのことではない。
大らかな、立ち止まってためらうことのない
日常的な性こそ、万葉以前からの
日本の伝統の色恋といったものでしょう。
基本、源氏物語だって同じです。

世界の宗教家の常識からすると
妻帯が許される日本の仏教は驚きというか
笑止の沙汰のようです。ですが、それが日本的というもので・・・。
非僧非俗の親鸞上人が六角堂で参篭中、夢うつつのうちに救世観音が現れ、
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽 と告げます。
親鸞よ、そんなに女性から離れられないのなら
私が玉女(玉のように美しい女性)の体となって
おまえに抱かれてやろう という淫夢です。
優しさがありますよね。男性としては
ひたすら頭を下げ、感謝するしかありません。

Serge Lama    セルジュ・ラマ
Toute blanche  すべてが白い

ですが、たとえば「ドリアン・グレイの肖像」から引用した
「知的な承認によって欲望を正当化したのだが、
その正当化がなされなくても、欲望はやはり
彼の気分を支配していただろう」といった問題は
まったく意識にのぼってきません。
西洋の恋愛で問題となる 知的な承認は、
アリサのような明確な形ではついに、日本にはないようです。
そこも日本型なんですね。自己の性を厳しく見つめることが
ないほうが、むしろ伝統的であり日本的なんです。
そんな日本人としての素地があってこそ、親鸞聖人は
妻帯も可能と考えることができたのでしょう。

Jaqueline Du Pre ジャクリーヌ・デュ・プレ が演奏する
Les larmes de Jacqueline  ジャクリーヌの涙 Offenbach オッフェンバック

ただねぇ、天竺へお経を取りに行く西遊記の三蔵法師は
なぜ偉いんでしょう?行く先先で、徳が高い僧侶だから
食べると長生きできるとか狙われちゃって?なぜ高徳なのか?
そんな疑問、持ったこと、ないですか?

それって結局、女犯(にょぼん)の戒を徹底的に守っているから
ではないでしょうか?キリスト教で言う情欲の大罪を全く排除
できている人間と言う存在は、そりゃ清らかなお坊様と認定です。
(ちなみに猪八戒が猪か豚か?は、どちらも正解ね。
猪は家畜化されて豚になったのですから元は同じです)

Luigi Tenco  Mi sono innamorato di te 夜の想い

一方、西洋にはやはり睡眠中、女性を襲うインクブス(Incubus)
男性の夢精を促すスクブス(Succubus)という夢魔がいます。
同じ淫夢でも、西洋はぐより具体的というか、ドギツイというか。
日本と西洋は、かくも違うのです。
恋愛のあり方が違うのは当然でしょう。恋愛とレンアイなのです。
相手へのアプローチも、自身の想いの持ち方も、違うのです。

え~、江戸川柳となると、性愛はもっと直截的でして^^
色模様とは、つまるところ。ご愉快好きということか。
好色なんて言葉もご陽気な色彩を帯びる、大笑いのバレ句です。

 二人とも 帯をしやれと 大家言い
 相模下女 気が狂ったか いやと言い
 弁慶と 小町は馬鹿だ なあかかあ

Rafael Amor ラファエル・アモル
Cancion para una lagrima    ある涙のための歌

江戸の下女の最大の供給源は相模の国。その出身の下女働きさんは
好色ときまった建前?なのに、そんな下女に振られちゃった!? ハァ?
自分を反省するどころか、女性がおかしいと決め付ける男の能天気ぶりは^^

町針と書いたら、いまどきはセクハラになるのかな?
仮止め用の針には、穴がありません。
絶世の美女、小野小町に振られた男どもが
あの難攻不落はなんなのだ
女性としての機能を備えていな
い、いないからできない、
できないからオレを振ったのだ、と我田引水、
お気楽ポンチな面白話で一件落着しちゃう与太話。
そんな奇怪な都市伝説がそのまま裁縫用語になっちゃった。で、
庶民はそんな耳学問で性の世界に自然になじんでいくわけで。

Fabrizio De André    ファブリツィオ・デ・アンドレ
Valzer Per Un Amore   ある愛のためのワルツ
(London Symphony Orchestra)

しょっちゅうくっついては離れ
融通無碍にカップルが生まれては消える
イージー・カム、イージー・ゴーの恋?
花のお江戸のラヴアフェア?
不埒千万(ふらちせんばん)、色三昧(ざんまい)!
不義密通で噂が立ち、親も同然の仲裁役、大家さんに
めっかっちゃったら、建前上、そりゃぁダメです。
いくら肉欲と衝動の赴くままってったって
ちゃんと、うまくやれよぉwww.
(ともかく、そこに魂の絶対性はなさそうです)

もっとも告げ口したり、噂するヤツも
正義のお面をかぶって、実は単にやっかんでいる。
他人様のご愉快が羨ましいんですよ。
他人は他人、自分は自分、ほっとけよぉ。

Iva Zanicchi    イヴァ・ザニッキ
Testarda io (La mia solitudine)   心遥かに

ま、不倫の名にも値しない間男騒動、つい出来心のような密通が
たいていで、金銭解決が主流ですから、ばれたって、
そこに直れ。二人重ねて四つに斬ってくれるワ。成敗! なんて
斬った張ったとか、女敵討ち(めがたきうち)とか
どっちに転んでも、まず考えらんネェし。

だから西洋の恋愛がときに伴う 罪 なんて意識は見られない。
情欲は大罪というヨーロッパ的=キリスト教的感覚など
薬にしたくたって見られない。
日本人の自意識に、性を罪とする感覚は普通は、ないようです。
業(ごう)と呼べるほどの性におぼれながら
アリサが苦しんだような性が持つ罪なんて関係ない。
神にそむいて知識の実を口にし、知性を持ったからこそ、
自分たちの性が恥ずかしくなったアダムとイヴの失楽園など
薬にしたくてもありはしない。

Roberto Carlos Eu Te Amo Tanto  余りに君を愛して

日本人の罪とは世間様に対してで、自分に向かっての意識ではない。
自分に対しての罪、二人に対しての罪 というのが
西欧型の本来の恋愛のポイントのひとつでしょう。
(しかし、みそかごと=密通 という表現は
色っぽいよナァ。適当に湿ってて和風だしサ。
房事なんて、なんつうか、ちょいと事務的でネ・・・)

情人と書いて「いろ」と読むとか
江戸のこうした文化は恋愛というより
色とか情(なさけ)とか、惚れた腫れたのほうが
どうも似合ってしまう。曽根崎心中ほか
七つの時が六つ鳴りて の心中モノも
夢の夢こそあはれなれ なんだけど
論理的構成力というか、恋愛を貫く一本の筋というか
立体的じゃなくてどこか平面的。
西欧と日本と、まるで体形の違いさながらで。
三島由紀夫はその辺を意識して恋愛を書く努力を続けていました。
谷崎潤一郎など和風だし、ヘンタイだけど、あれも恋愛でしょうね。

황수정 ファン・スジョン  
사랑은 그렇게 시작되었습니다  愛はそんな風に始まりました

ちなみにですが、この肉体の機能不全へのあからさまな言及は
野坂昭如の小説の中で紹介されている「兄妹心中」の口説き節でも
登場しますから、どうも特異な発想でもなさそうです。
「辺り聞こえた色娘 年は十八番茶も出花 いい寄る男は数あれど
男嫌いか穴なしか いやよいやよと首をふり いやよいやよと首をふり
いやよいやよと首をふり 首をふりふり 子をはらむ」(骨飢身峠死人葛)

「首をふる」の意味が、最初と最後で違うのね。
ちゃんと必要と思われる時間経過が、繰り返しの中に変化があるわけで。
全然、気づかなかったもんなぁ、高校生のこのボンクラは。
経験していないとは、そういうことです。

Perry Como ペリー・コモ
My Days Of Loving You  君を 愛した日々

イタリア映画「木靴の樹」では、貧しい農夫が好意を寄せた女性に
ついて回るものだから、女性は後ろを振り返って不審がります。
勇気をふるった農夫は「君について行っていいかい?」
「君の名前を訊いていいかい?」と声をかけ
女性の了解と彼の気持ちへの承認を求めます。
どうも正確に覚えていなくていけないのですが、素敵なシーンでした、

これなどいかにも西欧型恋愛の風景で、いやよいやよと首をふり の
少なくとも表面的には同意を求めないし、与えもしない情景と比べると、
かなり恋愛の質に違いがあることを示していそうです。
もっとも昨今の日本、肉食系女子が出現したのか復活したのか
拒否の形を取りたい?日本的心性とまでは言えないのかもしれません。
たまたまそんな女性だったのかも?

そうそう。まち針だけじゃない。 本腰を入れる、独りよがり も
本来はそっち系の言葉で、特に女性に口に出されると、ちょっとなあ。
無知なのか無邪気なのか、ったく。

Julio Iglesias  フリオ・イグレシアス
O Me Quieres O Me Dejas わたしを愛すのか わたしを捨てるのか

脱線ばかりですみません。
江戸狂言に話を戻して、願掛けの弁慶は
女断ちしていましたが、こんな気持ちいいことをしないなんて
あいつら、なんて馬鹿なんだと、互いに性癖知ったる女房と
妙に息を合わせちゃってさ、あっけらかんとしたもの。
嬉し恥ずかし?の肌感覚が伝わってくる微妙な淫靡(いんび)さです。
なあかかあ と、つい相槌を求めちゃうところが滑稽(こっけい)で。

親は行くなと言うのに、娘は
どうしても盆踊りに行くと言ってきかない。
と、父親は娘をクルッと後ろ向きにし
お尻を3回ほど撫で回して、
「ハイ。行ったも同じ」

歌垣、盆踊り、地域によっては雑魚寝。
日本社会は需要と供給(男女、どちらが需要かは
状況次第でしょう。楢山節考の寡婦は、若い衆に劣らず
かなり切迫した需要だと思うんだけど)を上手に
按配する柔構造になっているんですね。
性処理の安全弁となるシステムを包み込んでいたのが
日本社会のかつての伝統ですから、西洋型恋愛とは
根本が違うわけです。
恋愛という同じ言葉ですが、日本では気を緩めると
レンアイになってしまう素地がある。
「狭き門」ほか、欧米の恋愛小説を読むことが
日本人には難しい一面があるわけです。

Paulinho da Viola   パウリーチョ・ダ・ヴィオラ
Nós os Foliões   わたしたちはお祭り騒ぎをした

いわゆる知識層だって、根本的な性への疑問はあまり・・・。
1960~70年代、学生運動が活発化しましたが
同志的連帯なんて、わかったようなわからないような
卑劣な言葉が流行しました。男が女に同志的連帯を持ちかける
わけです。もちろん狙いはsex。女が拒めば「それくらいの
連帯ができなくて、何が革命だ!」と、微温的・プチブル的
優柔不断さを攻撃し、なんとなく納得させる、かなり有効なツール。
ルネサンスのひとつの命題であった「人間性の研究」といった
意識的な第三者の目なんて、そんな面倒な作業はありません。
だから自己分裂もしにくいわけで、結果、可愛げもなく
厚かましさが目立ってしまいます。

こんな不誠実な口説きを平気でできる男って
いつもスポットライトを浴びたがるタイプではないでしょうか?
だから社会人にナっても頑張って、それなりの地位に
なったりしてね。

まぁ左翼でも一方の党派では「歌って踊ってハイ革命」なんて
女性に受け入れやすいソフト路線もありました。
いずれにせよ、ラジカルに凝視する目線は他者にばかりで
心でも身体でも、自分を厳しく見つめる自己観察はなかったようです。

この学生たちに、性に於ける知的承認なんて発想はまず
有り得ないでしょう。自然(じねん)のものとして
性を深く思い至らないまま扱ったために、容易に性的乱交の宗教と
堕した真言立川流という教派があったことはご承知の通りの事実です。
学生たちに、そんなところはなかったでしょうか?

Arturo Benedetti Michelangeli アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ
Chopin ショパン  Ballade No. 1 バラード 第1番

経典を読むだけでは大きな間違いになるから、これだけはただ
貸すわけにはいかないと理趣経を特別扱いとした空海は全く正しいのです。
学僧としては超優秀な最澄で、せっかく弟子とまで空海にへりくだったのに
と反撥したでしょうが、宗教家としてはやはり空海に徹底を見ます。

真言立川流は平安末期の天変地異含む社会的混乱を背景に、醍醐寺三宝院の仁寛が
創設したとされます。精進潔斎の厳しい修行を経て即身成仏するという真言密教に対し
男女の交合によっても可能としました。僧・文観によって立川流に導かれた後醍醐天皇は
その秘儀の実践として乱交を繰り広げたと言われ、これが無礼講の始まりとも。
ということは、「今日は無礼講で」なんてあいさつは、とんでもないことで・・・^^

お葬式で読経されているのもなんとなく面白いのですが、性の交歓はそれだけで菩薩の境地
としているところとか、やはり危ない。その一面をしか捉えておらず、輝かしくも
容易に受け入れやすい属性にばかりに目をくらまされ、それがすべてと思ってしまうと、
この罠にはまることになる。当然ながら、邪教として弾圧が継続され、
江戸時代に途絶したと言われますが、一部ローカルでは容易に復活していたようです。
髑髏本尊 を信仰の中心に据え、もっともらしくも入念につくりあげられた髑髏本尊は
言葉をしゃべり、すべての願いをかなえることができる、とされちゃった。
いかにも期待を裏切らない?仕掛けでしょ? 
こういうのにダマされるのは、自分がダメだからですよ。

Luz Casal   ルス  Un Año de Amor  愛の1年
本来はカンツォーネですが。

とんち話で有名な一休さんこと一休宗純はどうだったか。
あの時代に珍しく本格的な修行を自らに課したわけですが。
「淫乱天然愛少年」 おれの天然は淫乱であって、少年を愛す やら
「美人雲雨愛河深」 美人との性愛の河は深い と、かなり徹底したようです。
が、自分と、自分の想う人と、そして恋愛と、三位一体のようなヨーロッパ方の恋愛
となると、そもそも発想が違う気がします。
性愛を自然(じねん)のものとして、それ自体には疑問を持たない、いかにも
民族的な傾向、限界なのでしょう。恋愛が独自の権利を持って、時に自分をすら
害したりするといった在り方は、やはり、一休さんにはなかったように思います。

上杉謙信なんか「生涯不犯(ふぼん)」なんて誓いを立てたけど、これって
正妻以外の女性とは交わらない、と受け取るのが普通なのだそうです。
な~んだ。それほどキビシくないじゃん、と拍子抜け。常勝将軍となるまでの
神通力のひきかえとするには、日本、交換条件が生ぬるいんじゃないでしょうか?
謙信は真っ正直に女性を遠ざけていたから、確かに神がかって強かったけど。

Rachmaninoff Symphony no.2 3rd Movement
ユージン・オーマンディ Eugene Ormandy が手勢のフィラデルフィア響を
指揮した演奏が、何も考えず、繭の中にいるかのようにふんわり
眠らせてくれるので好きなのですが・・・。子守唄みたいだから
憔悴しきったアリサが聴けたら、少しは気持ちが和らぐ時間も
あっただろうに。

あ、女性の方! 現代で気をつけなければいけないのは
夏祭り、花火大会、海水浴 だそうです。
開放感で気がゆるんだり、男性への優しさから空気を読みすぎて
ヘンな物、飲まされたらダメです。恋愛以前の問題です。
恋愛を望みすぎると、悲惨なこともあるということ。

殿方に気に入っていただこうと上の口を開くと
下の口もどうしても開いてしまうものですわ
といった言説は、ブラントームの艶婦伝の一節だったか。
かかわってはいけない男には、徹底的な無視がいいのです。
ご用心、ご用心。

Tania Libertad  タニア・リベルタ
PELEAS けんか

個人的には、大学生のとき
職場の兄貴分に気に入られ
「家に遊びに来い! 嫁を貸してやる」
なんて言われてブッ飛びました。
「頭がいいだよ。英検2級だ」と
嬉しそうに女房自慢が続きました。
性のモラルとしては情けないところもありますが、
まさに古代の歌垣そのままの大らかさではないかしらん?

それが伝統的な、あるいは代表的な
日本社会の性への向き合い方だったと
みることができるかもしれません。
だからこそ、そこに日本のセクハラの根深さを見ることも可能でしょう。

もちろん、日本的なレンアイの風景は古来、自然に存在していますし
その大らかな、素直な性が悪いわけではないのです。

古文の教科書にも載っている弟橘比売(おとたちばなひめ)が詠った
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の
           火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

など、こういう想いなんかストレートで
舎人も日本的心情のベストだなぁとは思います。
なにも「狭き門」ほかで描かれた西洋型恋愛がベストだとは思わないもの。

マルタ・アルへリッチ Martha Argerich が Schumann  シューマンの
「子供の情景」から「見知らぬ国」を弾いています。
Von Fremden Landern und Menschen

奈良時代、聖武天皇の皇后、光明子は、夫にこんな歌を贈ります。

吾背子(わごせこ)と 二人見ませば 幾許(いくばく)か 
     この降る雪の うれしからまし

心が深いからこんな優しい想いがあふれるんですね、きっと。
僧の玄昉(げんぼう)と、あらぬ噂?は立っても
苦心の造営の東大寺大仏殿須弥壇(しゅみだん、大仏さまが座っている
まさにその高くなっている場所)の地下から見つかった右あご下の臼歯が
聖武天皇のものではないかと言われているけど、それはまさに
光明皇后の指示だろうし、つまり、真情において
誰とともにあったかは明らかだと思うのだけれど。

対して夫君の聖武天皇にはこんな歌があります。

大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのころ

Serge Lama   セルジュ・ラマ   L’enfant au Piano  ピアノの子ども

いいよね! 男は大らかに、余裕をもって人に接したいものです。
残念ながら男性の遠江(静岡県西部)国司、桜井王に贈ったものですが
光明皇后に贈られたと勝手に妄想しておこうっと^^

要するに、性というものをつきつめない日本的心情=レンアイも
悪くはないのです。ちゃんと美しいのです。ただ西洋型の恋愛とは
本質的に違っているだけで。

焼き餅は遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず味わいもよし。
落語ですね。で、そのまま耳学問であり、世間知となっています。
決して恋愛そのものを見つめ、追究していくのでなく
恋愛の人間関係の在り方だけを問う。これが日本的解決なんでしょう。
焼き餅も嬉しいもので、おかげで香気ある色模様になるんだろうな、ってね。
かんざしも逆手に持てば恐ろしい もご同様。
表裏一体だからこそ、かんざしも可愛らしく、美しい。

Mari Trini マリ・トリニ
Cuando la lluvia cae  雨が降るとき
 

「恋多き女」なんて言い方があります。
「恋多き男」という言い方は、ちょっとしっくり来ません。
つまり恋は日本の男女には平等ではないということです。
男の価値は少なくとも、色恋沙汰にはなさそうです。
西欧型の恋愛が日本社会にまだ成熟していないひとつの証拠でしょう。

でもレンアイ依存が体質なのか、そんな恋ばかり繰り返して
いったい、どうなりたいのでしょう? あとさき、考えなし?

Marlene Dietrich ドイツの名女優 マレーメ・ディートリッヒ
Ne Me Quitte Pas  ドイツ語で歌っているけれど、原曲のフランス語がタイトル。行かないで

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