狭き門 ジッド 1

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フランスに Mariage blanc マリアージュ・ブラン
という言葉があります。
白い結婚・婚礼 という意味です。白とは清純。清純な結婚。
それは sexual relaton 性的関係を伴わない結婚ということ。
たとえばアメリカのエドガー・アラン・ポーと従妹のヴァージニア、
フランスではアンドレ・ジッドと従妹のマドレーヌ。
生煮えの言葉で感心しませんが、
いわゆる 処女妻 だったと言われます。

フランソワーズ・アルディ 幸せな恋はない
Il n’y a pas d’amour heureux
「狭き門」1-5止 で挿入されている動画の歌は
日本語訳が、この 舎人独言 の中にあることがあります。

「狭き門」のテーマは、神への愛を選ぶか地上の愛を選ぶかだ、などと
よく言われるようですが、深く読めば、神への愛の「神」が果たして神そのものなのか・・・?
ことはそれほど単純な対立ではないようです。
習慣化して無宗教が普通の日本人は、アリサの余りの傾倒ぶりに気押されて
キリストへの信仰がテーマと感じることが多いけれど、それは「神」の存在に目が眩んでいるから。
小説「狭き門」とは、神からの離脱という当時のフランス社会の大きな潮流にあって
なおも神を棄てきれない小説家が書いた「脱恋愛」の兆しを描いた恋愛小説なのです。

この小文(1~5止)では、こうした視点で、アリサの苦しみの
その根本の解読に努め、実は日本人は「狭き門」を読み解くことに
向いていないのではないかとの疑問を経て
ではアリサはどのように考え、感じることができたらよかったのか
までを追いかけていきます。

実は全文を読み返してみると、最初に日本のレンアイ基本形を書いたら
「狭き門」と日本人がどれほど隔たった存在なのか、
わかりよかったかもしれませんが。

さて、恋そして愛ときたら、フツーは性愛を意味します。
そうでなければ人類は滅亡へと進んでしまうわけで
確かに恋愛は性愛であることが前提のように見えたりします。
それでも人間性の一部には、性愛を当然視しない
内側に潜む聖性と獣性の相克だってあります。

SIMONE シモーニ  Adoro アドロ

その結果として マリアージュ・ブラン的要素 は
支配的なのか、本人も気づかぬほど微量に過ぎないかはともかく
人間にとって実は普遍的であるようにも見えます。
七面倒なゴチャゴチャが嫌いな日本でだってちゃんと、
その素地を見つけることができます。

中勘助の「銀の匙」で、性に目覚める頃の主人公が
憧れにも似た気持ちで友人の姉様を思いつつ、
その官能の華やぎから敢えて引き返す潔癖。
中里恒子の「時雨の記」でも、安易に獣性を自らに許すことを
ためらう初老の男が描かれます。

Charlotte Gainsbourg   シャルロット・ゲンズヴール
L´un part et l´autre reste  一人は立ち去り もう一人は残る

そして村上春樹の「ノルウェイの森」でも
この感覚は最初に自殺を遂げるキズキそして直子の関係に
影を落とし、その正体を巧みに隠しながら物語全体を展開させる
強いエンジンとなっているようです。

既に書いているのでここでは詳しく述べませんが
キズキとはキヅキであり、「気付き」なのです。
そうでなくて、どうして耳なじみのない苗字である必要があるでしょう?
その彼がなぜ自殺したのでしょうか? 二人のやりとりと葛藤を
聖性と獣性の相克にポイントを置いて想像してみてください。
きっと「気付き」があるはずです。

Nina Simone ニーナ・シモン  That’s All I Want From You

あるいは卑俗と?思える演歌の世界でも、たとえば
北島三郎がこぶしをころっころ回しながら歌う喧嘩辰の歌詞
「殺したいほど惚れてはいたが 指もふれずにわかれたぜ」。

以前も書きましたが、男はつらいよ で、御前様のお嬢さん、冬子が
酔っ払いの千鳥足でこの部分を歌っていました。
指もふれないほどに冬子を崇めて略奪などしそうにない彼が歯がゆいのか・・・。
寅さん、お嬢さんの意外な 女 に、目を白黒させていましたっけ。

実はアリサの恋愛模様と構造が似ていなくもないようなのですが
ああ見えて都会人らしいシャイさを持つ寅さん。
寅さんってアイコンとしての女は大好き。もう、すぐ一目惚れしちゃう。
ところがいざ実体のある生身の女として現れるようになると、テレてしまう。
自分の欲望が手に負えない。直視できなくて目を逸らすしかないほど「テレ臭い」。

Fauré フォーレ
ラシーヌの賛歌 Cantique de Jean Racine Op 11

「結婚しているなら別よ」と迫ってくれたリリーに対してすら、自分の性欲を、自分に素直に
許してやることができない。だから、寅さん、積極的に出ることができなくなっちゃう。
だから、女性は、自分が好かれていないと思ってしまう。
寅さんを手放すかないと思ってしまう。寅さん、失恋するしかないじゃないですか!
夜、階段を上って寝所へ訪れる気配に、とっさに眠っているふりをした時の石田あゆみ
(わけアリの不幸が似合ってしまう素敵な女優さん)、穏やかな家庭が築けそうな幼馴染の八千草薫、
寅屋までやって来て想いを伝えたかった竹下景子・・・。
寅さん、野獣派虎サンになれたら、きっと結婚できていたでしょう。
だけど、それじゃあ寅さんの物語にならない。
永遠の片思いという万年純情青年が、一番安定した姿の、ハマリ役の寅さん・・・。

アリサも自分の中の自然、欲望という本能に素直になれなかった。
清らかさをまっとうしようとする天使が、目隠しでもするのでしょうか?
自然に逆らったら、そりゃ寅さんだって、アリサだって、フツーの幸せにはなれない・・・。

松田聖子の「赤いスイートピー」では、
「半年過ぎても あなたって手も握らない」でしたね。
性におけるためらいは、単に勇気がない
だけではないのですが。

Arturo Benedetti Michelangeli アルトゥーロ・べネネッティ・ミケランジェリ
Chopin – Mazurka op. 33 no. 4 ショパン マズルカ 作品33-4

惜しまれながら亡くなった
たかじんも、最後に結婚した女性とはそうした関係を結ぼうとせず
「手を出しておけばよかった」なんて本音とも冗談ともつかない
でも、実際にそんな気持ちもないでもないだろう心境を語っていました。
夜の歓楽街を豪放に闊歩したあの、たかじんが!
単なる潔癖とか、奥手ということではない感覚ということです。

人間には2種類があります。
真っ白な雪景色だからこそ真っ先に自分の足跡をつけたい者。そして
その美しさにおののきのような感動を覚え、
敢えて足跡をつけることにをためらい、避ける者と。
世の中には確かにひねくれ者もいて、小説「ドリアン・グレイの肖像}
では「神聖なものにこそ、触れる価値があるのだよ」といった言説を
弄ぶ得意顔の登場人物が出て来ます。もちろん、この人物は前者。
マリアージュ・ブラン に通底するのは、後者です。

CAMILO SESTO  カミロ・セスト
No Sabes Cuanto Te Quiero  わたしがどんなに愛しているか、君は知らない

ビヨンセやブリトニー・スピアーズが、結婚まではと
そこまで発展する性愛を避けたことは、マリアージュ・ブランの感覚と
共通するところがあると思います。彼女らなりの美意識による
選択ですが、ただマリアージュ・ブラン的傾向とはやっぱり違うかな。
(ブリちゃんの remain a virgin until marriage は実は
嘘だったようですが、それが理想だったことは間違いないようです)

「狭き門」のキーワードは。聖なるもの。あるいは、清らかさ。
言い換えれば、自らの内なる肉欲へのスタンス・・・。
つまり聖性と獣性の相克です。
清らかで美しいものへの揺るがない憧れと
肉体を持つ以上、簡単には否定しがたい欲望に
どうしようもなく引き裂かれてしまう・・・ということ。

その感覚が意味を持つ人間とそうでない人間の2種類があるでしょうが
意味を持つ人間について、みてみましょう。
そんな男性にとっては、女性の中に
犯しがたい美しさと気品をみる者に与えられた感覚です。
逆に女性自身にとっては、さらに
その美しさと気品の完成でしょうか。

ガル・コスタ Gal Costa  アントニコ Antonico

ピュアな、汚れない雪景色への憧れ。
それは、女性によって救済されたいという男性の気持ちの現れかもしれない。
マリアさまのような穢(けが)れを知らない女性の手による救済。

「狭き門」は自伝的要素を取り込んだ
ジッド(ジイド) André Gideの代表作です。
実際、妻のマドレーヌの日記を引用もされて、
その姿がヒロインのアリサに投影されています。
現実には、マドレーヌはいったん拒絶しながら結局
結婚を承諾したのに対し、小説の中のアリサは
至上の愛を完結させるため、死への道を選んでいるかのようです。
それは、まるで緩慢な自殺のよう。
お母さんから目を合わせてもらえず、話しかけてもらえない赤ちゃんが
2年ほどで死亡してしまうのと同じように、ジェローム断ちをしてしまったアリサ。

だから、アリサにとって致命的に意味があったのは
神ではなく、まぎれもなくこの人間界で想いを寄せるジェロームなのです。
神の御許へ近づけることが、主の花嫁となることが、心から
嬉しいなら、いったい衰弱死などするでしょうか?
誤解を恐れずに極言するなら。アリサにとっての宗教はジェロームなのです。
そんなことを書いたら、いまだキリスト教の社会規制が窮屈な
20世紀初頭、ジッドは非難を浴びて小説を書けなくなるでしょう。
だから、ジェロームがわたしの信仰などと、直截な発言を
アリサにさせたりはしないけれど。

やはり信仰と愛の相克の物語ではなく、愛の2つのあり方の相克なのです。
神は、生身のジェロームを否定するための言い訳というか強弁のような役割に過ぎません。
冒涜のような言かもしれませんが、実体としてはまぎれもなく
アリサにとってジェロームとは、もう一つの神、いや神以上に絶対な神という位置づけ
と理解したほうがわかりやすいかもしれません。

Roberto Carlos  ロベルト・カルロス O Terço  ロザリオ

天上の愛という言い方は、神と直接に結びつく愛
ということでしょうが、体裁が良すぎです。
耳障りのいい言葉のせいで、雰囲気だけでなんとなく納得しかねず
問題がどこにあるかを、はっきりさせない弊害を感じます。
要は、結婚となれば、相手の意向次第で
lust of flesh 肉体を持つがゆえの欲望 肉欲 の承認を
否定できない、そのことがアリサにとっての
一番の問題ではなかったでしょうか?
簡単に言えば、肉欲を自分に許せないのです。

カルヴァン派が支配した時代のスイスでは、火刑が普通に行われましたが
また妊娠のための服も普通に常用されていました。
肝心のところにそれぞれ空きスペースがあります。
生殖のための行為は許されるが、快楽を得てはいけない。
情欲は大罪である、という教えなので。
(ネ、日本人の感覚とは大いに違います^^)

ことほどさようにキリスト教の伝統は、トマス・アクィナス以来、
裸体を卑しいものとし、性的なものを極力排除するわけですが
天上の なんて綺麗ごとでない、
アリサにとっては生身の人間の苦悩だったはずです。
それはアリサなりの「原罪」。
アリサは愚直にも、原罪という意識に真正面から
ぶつかってしまったのではないでしょうか?
要領よくやればいいものを、正面衝突を避けようとしないなんて。

Jose Feliciano  ホセ・フェリシアーノ
La Balada del pianista  ピアニストのバラード

原罪の定義はどうも、あいまいです。一人ひとりの感性・感覚に
委ねられているところがかなりあるようですが
舎人には、原罪とは性そのものに感じられます。
人間としての尊厳を持っているはずなのに
自身をコントロールできない状態におく強烈で執拗な本能。
理性の埒外におびきだし、知性と誇りを失わせかねない誘惑。
肉体ゆえの説明しがたい躍動と歓喜、蠱惑(こわく)。
「想像し、予感していた別の歓び。私の魂がすでに渇望していた歓び。」

そして肉体を持つゆえの畏れと嫌悪。
肉体を持たない天使なら、こんな欲望など持つでしょうか?
少なくとも、天使の欲望は、人間のような形では表出しないでしょう。

ピエール・バルー Pierre Barouh が、フランシス・レイ Francis Lai
の作品を歌っています。
Le Courage d’Aimer   愛する勇気

自らの性を恥ずかしいものと自覚する感覚とは、つまり
ヒトという生き物が、アダムとイヴ以前のような
自然の一員という存在から、あるときは自然に立ち向かい、
克服に動くことができる存在という、自意識という別次元へと
新たなステップを踏んでしまったということです。
その具体的な証拠が、科学の発展であり、また聖性への意識でしょうか。
そそのかされたのは、いいわけに過ぎません。自身の選択で
禁断の木の実をかじった瞬間こそ、聖性と獣性の相克の始まりでした。
その歓びも、苦しみも、自身のもの。
誰のものでもありません。アリサのように。74

Luz Casal ルス  Piensa En Mi  わたしを想って

イチジクかブドウか、その葉で自分たちの肉体の最も性的な部分を
隠すという行為こそ、人類初の知的行為でしょう。
そして「私は、何も言葉では言われないで、
自分が彼を愛しているとは知らないで愛することを望む。
とくに彼に知られることなしに彼を愛したい」
というアリサの言葉は、アダムとイヴがかつて持っていた
無邪気=イノセンスから、なんと遠いことでしょう。

もはや自然の大いなるゆりかごで優しい無意識に抱かれたまま
眠ることは許されない。それが
二人が新しく再発見されるように導かれた
性 という原罪。

アリサとジェロームの会話です。
「私たちは幸福になるために生まれたのではないのよ」
「では幸福以上になにを望むのだろう」
「聖性よ」

Lucio Battisti  ルチオ・バティスティ
Don Giovanni ドン・ジョヴァンニ

sexの語源はラテン語で secco と、読んだことがあります。
切断面 という意味だそうです。アンドロギュノス神話の最終局面で
神によって結びつきを切断された男と男、男と女、女と女。
そして引き離されたゆえに、孤独というヤツが生まれ
better-half を求めて恋の遍歴が始まったのでしょう。

ちなみに、意義深い、意味深長なという意味の significant の sig
断片などの意味を持つ segment の seg は、seccoから派生して
英語の接頭辞となっています。
セグメントって、コンピュータの中で、
みなさん無意識にひんぱんに使っていますね^^

(初期キリスト教のふくよかな頬を持つキリスト像は、中世、
肉をそぎ落とした禁欲的な姿に変わりました。いかにも
求道の苦しみ、克己が相応しいイメージとされたわけです。
受肉 ≒ 性 ですから、肉体を削ったイメージ。
東方教会は、そこまで禁欲的ではありませんね)

Roberto Carlos  ロベルト・カルロス  VOCÊ  君

この「狭き門」を、信仰と愛の相克の物語と捉えるといった
「読み」は、さぁ、どうなんでしょうか?
信仰は、溺れる者にとっては藁以上に有効な助けと
なることがあります。それだけに安易に頼ってはいけないのですが
ともかく絶体絶命のときに支え、安らぎをさえもたらしてくれる
こともあります。

ですが、この物語では信仰はむしろ枝葉であり、
本筋は恋愛物語そのものと読むほうが正解でしょう。
ぶつかり合っているのはアリサの信仰と愛の二つではなく
アリサの中の、一人の普通の女性として夢を見、望ましいと思う愛と
苦しいけれど、アリサが求める、あるべき姿の愛の二つのありようなのですから。

アリサの祈りとは、一般的な
主よ、わたしを御許へ導きたまえ
ではなく
わたしを父を裏切らせた母のような愛から守りたまえ
汚れた欲情からわたしたち二人の愛を守りたまえ
であったはずです。
その帰結として、神の御許への想いがあるとは思います。

Cora Vaucaire コラ・ヴォケール
Heureusement on ne s’aimait pas 愛し合わなくてよかった


Cora Vaucaire “Heureusement on ne s’aimait pas… 投稿者 sylvainsyl

アリサはこの世に生まれるという肉化された自身でありながら、
ジェロームとの恋愛で、受肉に伴う喜びを自身に許しません。
わずかに背中にジェロームの体温を感じることに
官能の酔いを覚えますが、慎みからというより、
恐らく求めるものはそれではないといった感覚から
さらなる展開を望みません。
まぁ、手くらいはつなぎますが、それは親しさの現れでもあるのですから。

いっしょにいることを願い、と同時に
狭き門を二人で抜けることができたらと願いながら、
どうしても結婚へと軟着陸することができませんでした。
「主よ、あなたが私たちに教える道は狭い道でーー
二人が並んで歩いていくことができないほどに狭いのです」
そしてジェロームに対しては、こうです。
「自分自身にもはっきりさせなければいけないのですが。
私は遠くにいる時のほうが、
あなたにもっと強い愛を感じるのです」

Charles Dumont シャルル・デユモン
Demain pourquoi pas   明日は、どうしてダメなの?

はたから見たら禁欲的であろうとした
と見えるかもしれません。
ですが、本人は自分の気持ちに正直に
生き方を選んだに過ぎませんから、過度の努力なんて
案外、必要としていないことでしょう。

「私にとって自分を抑制することは
他の人々が放縦に走るのと同じように自然だった」
「労苦に対して報酬が得られるなどという考えは
生まれのよい魂にとっては侮辱です。
徳はそのような魂にとっては飾りではない。
違うのです。それは魂の美しさのかたちなのです」
アリサは高潔であることを望む魂の欲求に
正直に従うしかなかっただけなのです。

Barbara Georges Moustaki バルバラ  ジョルジュ・ムスタキ
La Dame Brune  ブルネットの婦人

珠の緒よ絶えなば絶えね という至純。
ジェロームを目の前にし、息遣いを感じるほどに近づくことは
官能の酔いにつながるのです。だから官能の昂(たか)ぶりのまま
性愛を受け入れることができす、ジェローム断ちをして命を削り
死を近づけ、受け入れていってしまう。でも
アリサは自身の感覚が目指す理想と、憂き世に生きる現実をうまく整理して
ジェロームとの結婚を選ぶことはできなかったのでしょうか?
「幸福がすぐそこにあり、待ち受けており・・・
手をのばしさえすればつかめるのに・・・」

Carmelo Zappulla   、カルメロ・ザップーラ
Ri Tia   2010年のアルバム Anima から
ナポリやシチリアの方言で歌われているのかなぁ?

疑問のきっかけは妹ジュリエットもジェロームを愛したこと。
自分がジェロームを受け入れるなら、妹が不幸せになる。
たとえ妹が諦め、自分たちの結婚を祝福してくれたとしても
どこかわだかまりがあることでしょう。
無邪気に喜んでくれる、真実の気持ちではないことでしょう。
だからもう、ジェロームとの結婚は、完全とは言えない。
愛の勝利でなんか、ありはしない。

妹の不幸せの上に、自分だけが幸せを築くことなどできない。
妹が不幸せになるような恋愛は聖なるものとは言えはしない。
聖別されるに値しない。そう気づいてしまえば、
ジェロームへの想いをどうすればいいのでしょう。
結婚を願うジェロームと、どう向き合えば・・・?
それでも、こんなにも愛しているのに。

アリサもアリサなりに「女の愛を恐れよ。 この幸福を、
この毒を恐れよ。」(ツルゲーネフ「初恋」)という
中毒症状を示したのです。

映画「男と女」挿入曲 ピエール・バルー & ニコール・クロワジール
L’amour est plus fort que nous 愛はわたしたちより強い

「彼なしで生きなければならないものは、
どれももう何の歓びももたらさない。
私の徳はすべて彼の気に入るためでしかない。それなのに。
彼のそばにいると、自分の徳が萎縮してしまうのを感じる」

たとえジェロームがいなくても貫ける愛。
姿をいつも視界に入れていられる安らかさも、
共に過ごす時間の甘やかさも、そんなものに頼らなくても、
わたしはジェロームを愛しつづけることができるのかも?
この愛が絶対というなら。ジェロームがいなくても
絶対性は損なわれないはず。

Roberto Carlos ロベルト・カルロス
El Día Que Me Quieras  想いの届く日

わたしが本当に絶対の愛をジェロームに抱いているのなら、
ジュリエットに譲ってもいいはず・・・。
それがわたしの徳。有徳の証明。
ジェロームなしに、わたしだけが想っていても、それは
愛のほかに呼びようもない紛れもない愛。そして
「徳を愛と融合させられるような魂はなんとしあわせだろう!」

それでも・・・。

しかし、ジュリエットは、アリサたちの素朴な気持ちを傷つけたことを
自ら罰するように、意に染まない結婚をします。
(狭き門の最後は、そんなにも深く結ばれていた
アリサとジェロームの仲を裂いたジュリエットの涙のシーンで閉じられます)
しかし、現世の愛に生じた堂々巡りのような疑問は、アリサの中で
それでも次第に愛を純化していきます。

和訳は アマリア 難船 のページで。

Amália Rodrigues  アマリア・ロドリゲス  Naufrágio 難船

わたしの愛は何なのでしょう? 
ジェロームが好ましいから愛するのか? 
好ましく感じなくなったら、手の平を返したように
愛さなくなるのか? 
いいえ、好ましいとか素敵とか
彼についての属性などはどうでもいい。
ジェロームその人こそを愛している。
そしてわたしは、ジェロームのためにこそ存在している。
わたしたちは深いところで結ばれている。

それはまるで、
ジョン・ダンのあの詩句のように
この世以前からの縁。
Twice or thrice had I loved thee,
Before I knew thy face or name
二度か三度 わたしはあなたを愛したことがある
あなたの顔や名前を知る以前から

Frank Sinatra
By The Time I Get To Phoenix 恋はフェニックス

「子供だった頃、もうその時分から私は
ジェロームのために美しくありたいと思っていた。
今になってみると私が《完璧》を志したのは
彼のためでしかなかったように思われる。
ところが、この完璧には彼と離れなければ
到達できないとは、おお、わが神よ!」

互いが互いのためにこそ存在している二人なら、
相手がどのような状態であっても別れることはない。
互いに与えられた存在なのだから。まして、少なくとも
自身の想いだけは不変なのだから、ジェロームが
ほかの女性と結婚してさえ、それでも別れではない。
愛を諦め、放棄したことにはならない。

それならば、自分は現世の幸せを捨てても、ジェロームだけでも、
現世の幸せを得て欲しい。
それがわたしの絶対の愛。ジェロームとの永遠の愛。

Michel Berger & Véronique Sanson
ミシェル・ベルジェ & ヴェロニク・サンソン
Seras-tu Là 君がいるだろう

「自分自身にもはっきりさせなければいけないのですが。
私は遠くにいる時のほうが、あなたにもっと強い愛を感じるのです」

アリサの思いは、堂々巡りをしていたことでしょう。
人は意識してか無意識でか、自分にさえ嘘をつきます。
だから正直な自分を見つめるために、何度も何度も繰り返し。
嘘をついていないか、自らを検証台の上に乗せて。
そんな風にして迷いながらも、幸せに手を差し出そうとしないアリサは、
一見、とても強いですね。

でも・・・。わたしは、わたしの愛を
どういう形で実現したらいいのでしょう? 
どうやって二人の愛の絶対性と永遠性を
証明してみせることができましょう?
(間違っていないと言えるのでしょう?)

Barbara バルバラ  Drouot ドゥルオー

ジェロームの想い。
「僕ら二人は進んでいくのだった。
『黙示録』の語る白い衣をまとい、
手に手を取って、同じ目標を目指して・・・」
アリサの想い。
「主よ! 私たち、ジェロームと私は、
あなたに向かって進んでいきます。
互いに相手と共に、互いに相手に牽かれて。
全生涯にわたって二人の巡礼のように歩いていくのです」
「おお、ジェローム! 私はあなたを通して、
その一つ一つを見るのです」

愛し合う資格は、そんな二人の同質性で確保できているのに、
それだけではまだ足りなくて・・・。
だったら、なにも求めないことにしたら?
肉化されたことの歓びは、母を迷わせた。
わたしとジェロームの間でなら、それはどこまでも誤りではないだろうけど、
その行為は母のようにときに誤りであることは事実かもしれない。
それに、こんなにもの至純な想いに何を加えることができるでしょう?

Benjamin Biolay  バンジャマン・ビオレ
Négatif   ネガティヴ

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