イパネマの娘 和訳 アストラッド・ジルベルト 秘話

世界の永遠の名曲に日本語訳をつけて応援しています。
魔法? 失われた古代の 不思議 が復活です! 笑顔がはじけていますネ。
2つ目のマグカップの動画です。(弊社PR)

ボサノヴァの名曲「イパネマの娘」の翻訳と
そのモデル、そしてアストラッド・ジルベルトの
普通とは違うレコーディング秘話などなどを紹介しています。

見ろよ なんて綺麗な娘(こ)(coisa mais linda )なんだ
優美さが溢れる なんてどころじゃない
スイートに身体をスウィングさせ
彼女は海への道をやってきたり 
通り過ぎたりする少女(menina)

1984年 リスボン Lisboa での JOÃO GILBERTO のライブ

 
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ガリレオを支持できましたか? 翡翠マグは?
今まで見たこともない翡翠の プチ不思議 は23秒から。
皮膚トラブルで貢献できるケースだってあります(この行をクリック)
翻訳と同じく ありのままを誠実に です^^

   
黄金色の身体 イパネマの太陽の女の子(Moça)
あの娘(こ)のスイングは詩というもの以上
通るのを見かけた中で 最も美しい娘(coisa mais linda)

アー どうしてこんなに寂しい?
アー どうして全てがこんなに悲しい?
アー 存在するんだ 美しいってことが
美しさなんだ ただ僕だけのものでなく
またも一人きりで通りかかるんだ

アー いつ通るのか
彼女 わかっていたらな
世界の全部が魅力でいっぱいになって
もっと美しくなるんだ
愛ゆえに
愛ゆえに

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「気」を発振する不思議な翡翠マグ と I love youの日(8月31日) の
青雲舎(株)が日本語への置き換えに挑戦しています。
それは歌が意味する世界を可能な限り正確に理解するための試みです。
無断転載はご容赦ください。リンクはフリーです。

作曲者のトン・ジョビンがフランク・シナトラと共演しています。
動画で登場する女性がイパネマの娘のモデルとなった方です。 

下の動画はジョアン・ジルベルトと、妻でデビュタントのアストラッド、
そしてアメリカのサックスプレーヤー、スタン・ゲッツによる
世界的に知られるパフォーマンス。
ピアノではアントニオ・カルロス・ジョビンが参加しています。
アルバム Getz/Gilberto(1963年)に収録。
ボサノヴァの初の世界的ヒットが イパネマの娘 となったのですが
アメリカの耳が肥えた音楽ファンに発信するために
いったんはジャズという場を借りて、ボサノヴァはちょいと違うぞ
ハイブロウな音楽なんだ、というイメージを出したかったのかな?

Joao Gilberto  Astrud Gilberto Stan Getz

でね、ジャズからのアプローチだと、さすがに ボサノヴァも
経年変化というか、古臭く聞こえることがあるんです。
それだけじゃなくて、ボサノヴァらしい自在感、しなやかさを
殺しているように聴こえたりもします。(言っちゃった!)
ジョアンが、スタン・ゲッツがボサノヴァを正しく理解していないと
怒ってバカ呼ばわりしたエピソードは有名ですが、単なるリズム、譜割り、
フレージング、アーティキュレーションといった言葉で表されるコンセプトと
ちょっと違っているようです。でも第一、その大元となるサンバとか、ダウン・
トゥ・アース的なブラジル独自の音楽がわかってないから、しょうがない。

シングルカットされたときは、ダンナのジョアンがカットされちゃった。
ヘタウマじゃ、評価されない。プロデューサーは売ることを配慮したのですが
ボサノヴァとは何か?となると、わかっちゃいないということでしょう。
売れなきゃしょうがないし、仕方がないね。編集権は会社にあります。

アストラッドが歌うことにジョアンが反発したとか、たまたま歌った
といった説がありますが。アストラッド・ジルベルトのインタビュー
記事によると、そうではないようです。何が正しいか、何を信じるか
ということですが、記事を翻訳したので一番下に入れておきます。

アントニオ・カルロス・ジョビンはピアノでボサノヴァを創ったけれど
ドビュッシーとかラヴェルら印象派の影響を受けたと言います。
あの予定調和で終わらないところが、ボサノヴァに入って独特の
浮遊感を生みました。いつまでもサビつかない最初の秘密はここですね。

ジョアンは14歳の誕生日プレゼントのギターを持って、お風呂場にこもり
音の響きなどを確かめつつ、リズムを探っていきました。
(ボサノヴァの要諦は静寂にありとは、個人的見解ね。
でも、そう言ったら、ブラジル人に握手を求められたよ♪)

ボサノヴァの神秘性・詩情は、複雑なリズムのサンバをギター一本で
表現するにはどうしたらいいか、を追究したジョアン・ジルベルトのお陰。
つまりボサノヴァとは一人サンバ! さらに
ここがスタン・ゲッツやプロデューサーら欧米圏の人たちに
わからないところでしょうが、ボサノヴァで最も大事な要素は
リズムより、むしろ実は、沈黙、静寂といったものなのです。
そう、お風呂の中でギターと歌声を柔らかく膨らませた、あの静寂です。
(サイモン&ガーファンクル のサウンド・オヴ・サイレンスで書いた通り)

だから個人的には精神的支柱はジョアン、楽曲などを提供して支えたのが
トン(音楽仲間は、トンあるいはトン・ジョビンと呼びました)かなと思います。
ジョアンは Bossa Nova の神、トンは Bossa Nova の父と呼ばれる事がありますが
いずれにせよ、この二人の創始者がいなければ、始まりませんでした。

ジョアンがカエターノ・ヴェローゾの美意識のもとに創り上げた
ブラジルの水彩画 をお聴きください。ドラムスが入っていないでしょ?
これがボサノヴァを殺さない、その静寂・沈黙を尊重する1つの例なのですが。

João Gilberto, Caetano Veloso e Gilberto Gil

イパネマ海岸から少し離れた 十字路にある Bar Veloso (バル・ヴェローゾ、
現在の店名は「イパネマの娘」。店の外に小さなテーブルを出すカフェを兼ねたもの)
で、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ジ・モラエス
(外交官でボサノヴァ最大の詩人)が、17歳のエロー Helô
(愛称、19歳説では誕生年と整合しない)を見かけたとき
おい、見ろよ と言ったのが 作詞のきっかけだったそうです。
彼女、イパネマの Rua Montenegro (モンテネグロ通り。現在は
Rua Vinícius de Moraes ヴィニシウス・ジ・モラエス通り) に
住んでいて、母親のお使いで煙草を買いにヴェローゾへ
行ったり来たりしていたのね。

最初に完成した歌詞には、Caminho do Mar 海の道 とタイトルが
つき、曲もつけられたのですが、ヴィニシウスもジョビンも気に入らず
新しいものが作られました。Blimp! という二人によるミュージカルの
中の楽曲で、でもミュージカル自体はお蔵入りでした。
ともかく、イパネマの娘 の誕生です。1962年でした。もっとも、次に決まったのは
Menina que Passa やって来た少女 というタイトルでしたが。
ウィキによると、ビートルズの イエスタディ に次ぐ世界的ヒットとされます。
そしてボサノヴァは間もなく映画「男と女」の挿入曲 サンバ・サラヴァ によって
いよいよ世界的人気を固めていきました。

ただブラジル本国では、ボサノヴァはちょっと難しい音楽と捉えられており
日本人がボサノヴァの曲名をあげると、自分たちの知識のなさから
「あなたはブラジル音楽に詳しい」と驚かれるようで^^

下はジョアンの娘 Bebel Gilberto のパフォーマンス。
ベベウはジョアンと2番目の妻、ミウシャとの間の子ども。
舎人独言では Aganju を翻訳しています。

歌詞の最初の単語は Olha  見ろよ ですね。
エローさん、当時すでにだったかはわかりませんが
モデルをしていますから、若くてきれいな女性 coisa mais linda
ぶりは明らかです♪ でも最初、モデル候補はいろいろ取り沙汰されているだけ。
エローさん自身、まさか自分のこととは知らなかったといいます。

Vinicius de Moraes ヴィニシウスは 
Revelação: a verdadeira Garota de Ipanema
「暴露 イパネマの娘の真実」で、その女性について次のように書いています。

カリオカスタイルの模範 黄金の娘 光りと優美さに溢れた
花とマーメイドを混ぜ合わせたもの しかも海への道にあって 
通りかかってはもたらすは わたしたちのものとはならない美しさ 
それゆえに その姿は悲しい それは美しくもメランコリックな
人生の贈り物であり 常に流れ また再び流れるのだ
(カリオカはリオっ子のこと)

エローさんは1945年7月7日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。
本名は Heloísa Eneida Menezes Paes Pinto  
エロイーザ・エネイダ・メネデス・パイス・ピント

結婚してからは Heloísa Pinheiro ピニェイロ を使うようです。
モデルということで国家的存在のセレブリティーであり、
神話になった美貌です。 1987年にはブラジルの Playboy誌の Playmate
になっています、また2003年には再度、娘の Ticiaと共になっています。

2001年には、経営するブティック「イパネマの娘」の名称を巡って
この歌の権利者(音楽出版社)がエローさんを訴えています。ですが世論もヴィニシウスらも
エローさんの味方で、文字通り法的にも イパネマの娘 と認められました。

エローさん、結婚式にはジョビン Antonio Carlos Jobim 夫妻を招いて
付添い人をしてもらったそうな。
現在のイパネマ海岸では、エローさんの孫娘が
周りをブイブイ言わせていると
10年ほど前に聞きましたが。

ヴィニシウスに抜擢された Toquinho トッキーニョのパフォーマンス。
Azeitonaという人が歌っているようです。

お国柄によって女性の体のどこに注目するか、違いがあるようで
ブラジルはどうもヒップに大いに目が行くそうです。バランソは
その腰のスウィングという気がします。

Num doce balanço は英訳すれば in the sweet swing です。
バランソ はスウィングと訳されますが、英米のスウィングと異なり
わざとというか、正確なリズムを根っからの天然でもって外した感じが加わるよう
です。それが、ブラジル本来のものとジャズアプローチのボサノヴァとの
違いを生んでいるみたいです。
ジャズじゃないけど、たとえば機械的な打ち込みのビートは正確無比で、
無機質なあの感覚もそれなりに味わいを感じますが、スウィングは一応、
リズムは正確として^^、でも打ち込みより少し人間的ぬくもりがあります。
で、バランソはさらにキッチリした規格のリズムから遠い感じがします。
スウィングのあの自在感を高く評価しますが。バランソはもうちょっと
不器用で素朴と言ったらいいのかな。その結果、グルーヴに違いが、ネ♪

下の動画は、演奏スタイルが古いけど
エローさん の美貌ぶりをお楽しみください。

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    舎人独言には
    ★エロスに変容するバラの寓意
    ★ノートルダム大聖堂の聖なる秘数
    ★オパキャマラドの風景
    ★映画「華麗なる賭け」チェスシーンのセクシーの秘密
    ★名盤「クリムゾン・キングの宮殿」の実在のモデル発見
    ★映画「男と女」サンバ・サラヴァの謎

    といった解読シリーズがあります。

Ipanema の語源は、ウィキによると、インディオ(トゥピ族)の言葉で
upaba  湖   nem  臭い つまり、臭い湖で、現在のオシャレで
高級感のある街並みとは大違いです。

ところでリオ五輪のマスコットは「イパネマの娘」と関係があります。
五輪マスコットはヴィニシウス、パラリンピックのマスコットは
トン(Tom トム)。

ヴィニシウスは黄色いネコ科の動物で、ブラジルの豊かな動物相と野生生物を
表現していて、一見、ネコのようですが、サルのような跳躍力を持っています。
ブラジルを代表する色である黄色に青や緑があしらわれている。

トン は青と緑が基調で、頭をたくさんの葉で覆った、ちょっとカッパスタイル。
南米大陸初のオリンピックということをふまえて、その豊かな植物相を表現した。
やっぱり「イパネマの娘」って、大きな存在ですネ。

さて、大好きな小野リサさんで。最高だな。軽やかで。
でもしっとりしてて。

娘 をいろいろ言い表す表現は日本語でもいろいろです。
乙女とか娘っことかね。
このボサノバ曲では タイトルになっている(タイトルだけ!)
garota ガロータ のほか、menina ミニーナ そして moça モッサ が登場します。
さらにスラングとして coisa mais linda コイザ・マイシュ・リンダ が、
若くて綺麗な女の子 といった意味合いもあるようです。
この歌で描かれているエローさんがそれだけ微妙な年齢にあった
ということなのかもしれませんが、にしても、このニュアンスの差は?

一番に若いというか、子どもに近いのは menina かな。
Gilberto Gil ジルベルト・ジルに Ê Menina という曲がありました。
Wando ワンド に Moça モッサ 娘 というちょっと素敵な歌あり
Alcione アルシオーネのサンバ歌謡に Garoto maroto 悪いヤツ 
という歌がありましたが。(ちょいと古いね、我ながら^^:)

調べてみると、ブラジルでも地域によって使用する感覚が違うそうです。
menina メニーナ は、子どもまたはティーンネイジャー(10代)で
小さな女の子といった感じだそうです。ある程度の年齢でも。ほかの女性が
仲間とかを呼ぶときに menina が使われることもあるようです。
Garota は10代より上です、ただ子どもにも使うことが可能とあります。
本当に小さな子どもには ガロティーニャ という言い方もアリ。
会話では menina ほどには使われず。書き物や映画などで聞かれるそうです。
Moça はヤングレイディといった感じ。ちょと古めかしくなっている表現
だけど、状況次第では使われることも。「彼、女の子みたいに遊んでる」
という時にモッサを使うと、性差別主義者に聞こえかねないそうです。
となると、タイトルはやっぱり Garota で決まりというわけですね。

ブラジルの音楽はボサノヴァとサンバだけじゃなくって
当然、普通のポップスもあるわけです。そのポピュラー音楽の世界で
王様 と呼ばれるのが、この舎人独言でも何曲か和訳して紹介している
 ロベルト・カルロス です。なんてったってカルナヴァルのサンバの
テーマに  ロベルト・カルロス が選ばれることがあるくらいですから。
その彼がボサノヴァのライヴアルバムをカエターノ・ヴァローゾとつくりました。
上の動画は、そのライブアルバムのパフォーマンスです。

それにしても、英語に移し変えられて The Girl from Ipanema
となったタイトルって、ちょっとビミョー。
エローさんがイパネマを行ったり来たりするだけで歌としては成立しています。
なのに from ? つまり、イパネマからやってきた女の子 でしょ?
オリジナルのタイトルは、イパネマで見かける娘 という意味ですから
この変更はアメリカから見て、ということです。で、アストラッドがまさに
イパネマからやってきた女の子 という役割を振られているわけです。
ヴィニシウスにしても大人の対応で、それくらいは承知ノ介でしょうけどね。
お陰でグラミー賞です。

アメリカのショービズにしたって、こうしたフレッシュなメロディとリズ感は
大歓迎で飛びついたんでしょうね、やっぱりマンネリってあるもの。
かなり上ですが、シナトラのパフォーマンスを聴いていて、そう実感します。

本来、ボサノヴァの女王とは、ナラ・レオンのことでした。
アストラッド・ジルベルトが世界的に知られるようになりましたが
彼女に歌い方を教えたのがナラ・レオンです。
上の動画は、そのナラのパフォーマンス。

Diana Krall   ダイアナ・クラール の
ムーディな The Boy from Ipanema Boy。

作曲者の歌と演奏で。
Garota de Ipanema- Versão original ( Girl from Ipanema)

キリがないから、「イパネマの娘」の締めはやはりこの二人で。
若かった二人も、こんな年齢となって、成熟の音楽を聴かせます。
ボサノヴァの創始者の二人。
ジョアン・ジルベルト&アントニオ・カルロス・ジョビンの共演です。
ジョアンが歌の前に微笑しながら語っているのは、こんな感じ。

トンが言うんだ。オリャ(今イパネマの娘の最初の単語。ここでは、
なぁ、ほどの意味) ジョアンジーニョ
ヴィニシウスがいなかったらポエジーになんないよって。
ヴィニシウスは、この歌を本物にするために、トンが歌うといいな
って言ってた。

ジョビンは偉大だと思います。ただ、ある噂について。
ボサノヴァ 名曲集 のページでも書いていますが
せっかくの Garota de Ipanema ガロータ・ジ・イパネマ ですから
Garoto ガロート のことを。

本名は Aníbal Augusto Sardinha。
サンパウロ生まれ。リオで40歳で亡くなっています。
とてもフレッシュな感覚で Duas contas や Gente humilde などの
佳曲を残した彼ですが、まだこれからという時に亡くなりました。

死後、あったはずの未発表の楽譜や覚書などが見つからない。
何にも知らない遺族が廃棄処分したのかどうか・・・。
友人だったら捨てるわけがないでしょう。そして
アントニオ・カルロス・ジョビンが持ち去った・・との噂が囁かれたそうです。
あくまでも噂です。確認の取りようがありません。
ただ、ジョビンがある時からほとんど新作を発表しなくなったのは
ガロートの遺譜のネタ切れとも・・・。
まぁ、シベリウスだって、ある時からプッツリと、でしたし。
成功者への妬みはいつだってあります。本当のことはわかりません。
ただ、誰かが書いておかねばいけないので。
ファンの方にはごめんなさい。

上の動画は、カルテット・エン・シー が歌う
ガロートの筆になる曲のポプリ(メドレー)です。
曲目はまさに、その Gente humilde と Duas contas

以下はアストラッド・ジルベルトのインタヴューの内容です。
2015年11月15日現在、アストラッドのパフォーマンスは、ジョアンの
サプライズプレゼントの結果という説はネット上ではほかにないようです。

10代の中ごろ、最高の音楽一族と言っていい若い人たちと友達関係になって、ほとんど毎日、一緒にたむろしていたの。結局、仲間はみんな有名になったわ。最高の友達で有名歌手になったナラ・レオン、作曲家のカルロス・リラ、オスカル・カストロ・ネヴィス、ロベルト・メネスカル(Nara Leao, Carlos Lyra, Oscar Castro Neves, Roberto Menescal。オスカルとメネスカルは有名プロデューサー兼プレーヤー)。わたしをジョアン・ジルベルトに紹介したのはナラよ。彼はわたしたちの音楽的グル(指導者)で、出遭って2、3ヶ月で結婚したのよ。

ジョアンと結婚した後、一族はもっと大きくなった。もっと年上の人たちよ。トン・ジョビン、ヴィニシウス・ジ・モラエス、ルイス・ボンファ、ジョアン・ドナートたちよ。ジョアンとはデュエットしたり、彼がギターで伴奏してくれていた。みんながわたしたちの家に来たときも、違う集まりでも、友だちはいつも、わたしに歌うようにとリクエストしていたの。

「イパネマの娘」のレコーディングの時にはまだジョアンと結婚していて、それ以前に職業として歌ったことはなかった。強調しておきたいのは「スタン・ゲッツあるいはクリード・テイラー(プロデューサー)が発掘するまではただの主婦だった」というのは真実をゆがめた話ということ。「雇われて」歌ったことはなかったけど、この音楽一族で集まった時にはずっと歌っていた。と言うわけでヴォーカリストとしてある程度は経験があったわけ。
もちろん、お師匠さんの彼、ジョアン・ジルベルトから毎日のように「セッション」をして教えられるといった経験をしたわ。

1963年.「ゲッツ/ジルベルト」のためにアメリカに行ったんだけど、それより前の1960年、たった一度だけどジョアンと一緒に大衆の前でパフォーマンスをしたことがあるの。「雇われて」じゃなかったけれど。リオの有名大学のひとつ、Faculdade de Arquitetura do Rio de Janeiroで開かれた有名なコンサートだった。ジョアンの伴奏で2曲を歌った。歴史的なショーと言っていいわね。リオのエリート層の若者の間にボサノヴァという音楽スタイルの人気を固めたということでなく、わたしを含めて、有名になった数人の名前の最初のステージということだったから。

スケジュール通りのリハーサルの2、3時間前、スタン・ゲッツがやって来る間のことだった。ニューヨークのホテルで彼(ジョアン)が謎めいた声で「今日は君にサプライズがあるよ」って、わたしに言ったの。なんとか教えてってお願いしたんだけど、彼、断固として拒んで「まぁ待ってろ」って。その後、スタンとちょうど「イパネマの娘」のリハーサルが佳境だったんだけど、ジョアンが何気ない調子でわたしに参加するように言ったのよ、コーラスを英語で歌ってって。ジョアンがちょうど最初のポルトガル語のコーラスを歌ったところだった。言われた通りにしたわ。歌い終わったら、ジョアンがスタンに向かって、単語を並べるだけの英語で、「明日、アストラッドはレコーディングで歌うよ。・・・どう思う?」
スタンはとても前向きで熱狂的と言ってもいいくらい。「凄いアイデアだ」って言ってたわ。後はもう「歴史だった」。忘れないわ。スタジオのコントロールルームで、吹き込んだばかりの歌を聴き返してしていた時のことは。スタンはドラマティックな声で言ったものよ。「この歌だね、君を有名にするよ」

おかしかったのは、わたしが成功を収めた後、スタン・ゲッツかクリード・テイラーが「わたしを発掘した」というストーリーがあちこちで見かけられるようになったこと。事実は、真実とはかけ離れてるんだけど。才能がわかる「賢明さ」とかわたしの歌に「可能性」があったって、彼らを「重要」に見せるものよね。彼らへの借りということでわたしは喜ばなきゃいけないんでしょうね。でも、彼らが嘘を言っていることになるって、わたし、困惑するしかなかった。

あの頃は今以上に、ドラッグストアで発掘された映画スターといったストーリーが、プレスや大衆に最大限にもてはやされていた。「主婦」が突然、よく知られる歌手になるというアイデアはヴァーブ(Verve Records)にはとてもいいプロモーションキャンペーンね。
ヴァーブは時にスタン、時にクリード・テイラーと言う具合にわたしが発掘されたというインフォメーションを流したのよ。ストーリーを語る彼らの無定見さなんて、わたには全くわからないことだけど。

インタヴューのときに、その話に同意していたんじゃないかって? ある意味ではそうだった。対決するような姿勢じゃなかった。でも別のいろんなインタヴューでは、わたしは本当のことを話したわ。だけどわたしには広報チーム(publicity machine)がなかった。真実ではあったとしても、本当の話は宣伝の「インパクト」としてはシンプルすぎるし、合理的すぎたわ。

レコーディングは楽しかったって?そうよ、とってもね。歌うのは、いつも大好き、
スタジオでは最初、ちょっと神経質になっていた。でも、と同時に、とても安心してもいた。主人のジョアン、そしていつも助けてくれる友達のジョビンがいるんだもの。

その後、すぐに歌うということにはならなかったわ。レコーディングの後すぐに、ジョアンとわたしはヨーロッパに行ったの。ジョアンに契約がいくつかあったし、またすぐにブラジルへ帰ったの。アメリカに戻ったのは、まあ10ヶ月ほどして、1964年になっていた。それがレコードがリリースされた時だった。

アルバムが最初に出たわ。LP(Long playing record)よ。ロングヴァージョンで
ジョアンが最初のコーラスをポルトガル語で歌い、わたしが二番目のコーラスを英語で歌った曲。ディスク・ジョッキーたちのお気に入りになったとき、ヴァーブはシングルをリリースすると決定して、わたしのヴォーカルパフォーマンスだけを入れたものに編集していたの。

リリースされてすぐだったけれど、わたしはスタン・ゲッツ・カルテットのヴォーカリストというわけでは本来、ないの。それは「あちらさん」のもうひとつの間違った認識よ。
6ヶ月のツアーで、ゲストヴォーカリストを務めたの。ショーのフィナーレで2、3曲を歌うって感じ。シングルは春にすでに出てヒットしていて、ジョアンはCafé Au Go Go(ニューヨークのヴィレッジのトレンディなジャズクラブ)で、スペシャルゲストとして招かれて演奏することになっていた。契約の日が近づいてきて、ジョアンは手に痛みを感じてキャンセルすることにしたの。当然、演奏できないもの。それでスタンが、ジョアンの代わりにわたしに出るようにしたわけ。
キャリアにトライするという考えは、わたし自身を援助するということで、歓迎するべき運命みたいなものだった。だから死ぬほど怖かったけれど、受けたわ。わたしが登場するっていう最初のステージがどんなだったか想像できる? クラブの外に、早く入りたがっているとっても長い列ができていたの。おかしいでしょ? それからすぐにスタン・ゲッツがスペシャル・ゲスト・ヴォーカリストとして Carter Baron Theatreで歌うように2週間の契約で呼んだのね。その契約期間中にスタンが引き続き6ヶ月の契約を示してきたわ。「slave salary 奴隷のサラリー」だったし、この契約にサインしたことを苦々しく思うようになっていたけれど、ジョアンと別れる途中で、オファーをちょっとした安全策と思ったの。わたしと、息子のマルセロ(母と子が歌う歌 のページで紹介済み)の生計のため、といった意味でね。

ハードな時期だった。別れ話の最中で、シングルマザーであることや、要求が多い新しい仕事の責任やらで。外国で、子供と旅をしながら、経済的困難を抱えて人生で初めてのことに四苦八苦だった。当然、羊の振りをする狼の間で、まったく純朴かつ不用意だった。悲しいことよ。わたしを利用したのはスタンだけじゃなかった。でも、それは彼らのカルマ。わたしのものじゃない。わたしは自分の道を行くし、ネガティヴにとどまろうとは思わない。傷ついてはいるのよ。ひどくね。フラストレーションもあった。でも、宇宙の力に向かって解き放すの。負担が軽くなるわ。わたしを利用した人たちを「素敵」とか言うのは偽善よ。それは御免よ。だから代わりに、黙っていることにして、記事になるインタビューとか本、ドキュメンタリーなど何であれ、コメントを寄せるという風になっていったの。