アマリア・ロドリゲス 和訳 難船 わたしの苦いレモン ファド

世界の永遠の名曲に日本語訳をつけて応援しています。
魔法? 失われた古代の 不思議 が復活です! 笑顔がはじけていますネ。
2つ目のマグカップの動画です。(弊社PR)

ファドの名曲「難船」と「わたしの苦いレモン」を翻訳しています。
格調高い難船、業を感じさせるほどに悔いの感覚が浮き彫りになる
「わたしの苦いレモン」です。高倉健さん、ちあきなおみさんのことも。

夢を船に置きました
海のいただきにある船です
あとで 海を両手で押し開きました
両手で わたしの夢を難破させるために


 
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両手はいまも濡れている
二つに分かれた波の色で青く
そして わたしの指から滴る色が
見捨てられた砂浜を彩っている

風が立つ
遥かからやって来る
夜が寒さをかたちづくる

水底で
わたしの夢が死んでいく
死んでいく 船の中で

わたしは泣くでしょう  
海を大きく 大きくするために必要なだけ
そうすれば わたしの船は水底に着く
そうすれば わたしの夢が消える

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「気」を発振する不思議な翡翠マグ と I love youの日(8月31日) の
青雲舎(株)が日本語への置き換えに挑戦しています。
それは歌の世界を可能な限り正確に理解するための行為です。
無断転載はご容赦ください。リンクはフリーです。

アルファーマは古いリスボンの姿を最も残していると言われる、狭い路地の入り
組んだ下町です。教会の広場ではチャリティでファドのコンサートが開かれて
ファドは今も庶民に息づいているようです。決して観光客向けだけの
音楽ではないんですね。

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    ★名盤「クリムゾン・キングの宮殿」の実在のモデル発見
    ★映画「男と女」サンバ・サラヴァの謎

    といった解読シリーズがあります。

高倉健がポルトガルを訪れるテレビ番組がありました。
ポルトガルへ行くというより、作家、檀一推の愛した
ポルトガルへ渡り、その足跡をたどる
といった企画だったと思います。

その番組で使われたのが
このアマリア・ロドリゲスの「難船」です。
健さん番組以前に、この難船を知っていたような
印象です。自分の出番ではないのに、他の共演者が
演じているといって座らずに撮影が続くのを見守った
健さんのストイックさに、いかにも、この難船は
似合っていたと思います。
健さんはヨーロッパ大陸の西の果て、ロカ岬に行き着き
大西洋の果てしない海原に落ちる夕日に見入っていました。

岬には記念の白い塔のようなものが建ち
詩人、ルイス・デ・カモンイスの次の詩句が刻み込まれています。
Onde a terra acaba e o mar começa 
大地が果て 海が始まるところ

その詩句はアマリア・ロドリゲスの「難船」と「わたしの苦いレモン」が
収められたCom que voz (どんな声で、 邦題は、ファド)の
ライナーノートに書かれたものでもありました。

往年の名歌手、ちあきなおみが
「霧笛」というタイトルで歌っています。
洋の東西でこれほどにセンチメントは異なるものか
同じ素材で歌ってみれば、その違いは歴然とします。

どちらが上? といった比較は、意味がありませんが
ちあきなおみは比較して、湿り気を帯び、空気が重いのです。
アマリア・ロドリゲスでは同様に暗く重いのに硬質な悲しみで
湿り気はあまり感じさせません、
ちあきなおみは、それほどの硬質ではなく、むしろ肌触りは
柔らかいのですが。

ちあきなおみは1992年、夫で俳優の郷鍈治が先に逝ってしまったのを機に
ぷっつりと芸能活動を中止します。
レコード対象を獲得した歌の分野だけでなく、バラエティにもよく顔をだし、
自虐ネタやらボケも引き受けて豪快な笑いを体現していたのですが。
以来、カムバックの噂も、さらに期待は常に、それ以上にあったのですが
一切、、表舞台に立とうとしていないようです。
まさに一人の男に殉じたかのようです。
殉愛となるほどになって、ようやく、ぼんやりの他人の目にも
その凄まじい感情に気づくのですが・・・。
純愛を証明するには、殉愛でなくてはならなかった・・・。
一人の女性の、ひとつの愛の成就に感動させられてしまいます。
その意味で、アマリア・ロドリゲスを歌えるのは、
ちあきなおみしかいないのかも知れません。

ちなみに日活スターのエースの錠 こと、宍戸錠が
郷鍈治のお兄さんです。
つまり宍戸開の叔父さんです。

Meu Limão de Amargura  わたしの苦いレモン
の全訳です。

わたしの愛 わたしの愛 
わたしの 動きの最中にある肉体 
あなたの まさに嘆きを捜し求める声  

わたしの苦味のレモン 書くというわたしの短剣 
わたしたちは時間を止め 死を知ることはないでしょう 
そして生まれるのです わたしたちは生まれるのです 
悲しませるものの中から  

わたしの愛 わたしの愛 
わたしの灰にまみれた鳥 
わたしたちが引き離されている 
その距離に泣く  

わたしの愛 わたしの愛 
わたしの苦しみが結ばれる処 
わたしの愛情が挽かれていく石臼 
わたしの苦痛の船 
この海には静けさがない  

この空には空気がない 
風を止めましょう 
泳ぐことも知らず 
わたしたちは死んでいく 死んでいく 
ゆっくりと ゆっくりと  

Com que voz どんな声で

最後の3行です。

De tanto mal, a causa é amor puro,
devido a quem de mim tenho ausente,
por quem a vida e bens dela aventuro.

それほどの苦しみ それは純粋な愛ゆえのこと
わたしが遠く離れたその人のせいだ
誰のために人生と財産を危険にさらすことか

マリア・ベターニアが触れてくれたお陰で 
アマリア・ロドリゲスにとうとう行き着きました。 
え、いまごろ?という意外感があります。 
言ってみれば、今までは難船状態だったということでしょうね^^

マリア・ベターニアの シクロ(歳月)です。

難船と同じく、人を待つ歌ですが
シャンソンの名曲「いつ帰ってくるの?」
はこんなセンチメントです。
ファドとの違いをお聴きください。
日本語訳は バルバラ のページで。

アマリア・ロドリゲスの素晴らしさ、偉大さは 
たびたび日本人の間でも語られます。 
ですがマリア・ベターニアと同様に、自分にとって何が感じられるから 
「素晴らしい」そして「偉大だ」なのか、語られることは、なかなかありません。 
人に語らないだけでなく、言語化していないため案外、自分自身に対しても
なんとなく凄い、といったレベルでアマリアの凄さをごまかしていることもありえます。 
そこを逃げずに語ることは、アマリア・ロドリゲスの魔力の自分なりの解明に 
役立つはずなのにネ。 
ということでヤボは承知の輔。ウザいと馬鹿にされようと 
ここは逃げずに、敢えて踏み込んでみたいと思います。 

もちろん、単なる個人的意見ですので、違っていると一蹴されるのも
当然、アリです。

アマリアの悲しみは激情に駆られたときのそれではなく 
日常化したときの悲しみでしょう。 
だからこそ、しっかりと向き合うことが必要になる。 
生きることは日常ですから。
サウダーでとかポルトガル的憂愁だとか、
そんな言葉でわかったような気で生半可に了解して、
さらに追いかけることを止めては、もったいないことです。
せっかくアマリア・ロドリゲスが天の岩戸のように
少し開いてくれたのですから
それでも願い、求めてしまうしかない人間の業にまで
思い致してみるのでなければ。

アマリア・ロドリゲスはまさに、そのファドの中で 
自分の感情、そして自分自身に真正面から向き合うことを 
強いられているかのようです。  
しかも自己責任から逃げたりはしません。 
悲嘆に直面しても、安易に逃げたりせず、勇気を持って向き合います。 
どんな悲しみが深いときでも、安易に人に頼ったりせず、自立しているのです。 
自身の問題として100%以上に引き受けているのです。 
その覚悟と、その揺るぎなさが、聴く側に、 
ある種の感動を与えるのではないか 
などと思うのですが、いかがでしょうか? 
(本人は揺れたいと願い、見た目には揺れたりする時もあるのでしょうけれど)  

マリア・ベターニアも 揺るぎない と感じていましたが 
二人を比べると、アマリア・ロドリゲスはもっともっと 揺るぎない。 
ま、かわいげがないと言えばそのとおりで、かわいげはない。 
マリア・ベターニアは等身大の人間としての尊厳といったところなのに 
アマリア・ロドリゲスは真正面から向き合うので、人間としては 
極限の悲哀を一個の人間としての尊厳とともに表出しているような・・・。 
人間ワザとは思えない、一種、神々しささえ備えていないでしょうか? 
復習の女神とか、いろいろ女神さまはいますが 
アマリア・ロドリゲスは悲しみを体現する女神なのでしょうか?  

歌詞の中で見られるとおり、アマリアが介在しない、すでに 
言葉だけの段階で 
ンビバレント(二律背反的)です。 
人間とは単純であるより、むしろ全的な存在であることのほうが 
より多いでしょうから、アンビバレントはより自然なのでしょう。 

無理に、暗いのはイヤ、悲しいのはイヤなどと心理操作をしようとするから 
片方を無理に浮き上がらせ、片方を無理に隠してしまうことになります。 
ですが、アマリア・ロドリゲスやマリア・ベターニアのような 
歌手は、言ってみれば、巫女タイプの歌手です。
せっかく人間が隠したマイナス要因も 
人生の表舞台に浮き上がり、登場させる底知れぬパワーがあるようです。 
暗い我執、エゴを浮き上がらせ、登場させる力を持つからこそ 
アマリア・ロドリゲスの偉大さではないか、と思うのです。 

 

アマリア・ロドリゲスの名前を世界的なものにした 
「暗いはしけ」( Barco Negro正確な訳は。暗いボート)。 
その功績は認めますが、音楽としては・・・・。 
暗くて思いものには真実がある といった感覚があるとしたら 
健全な精神の発達に思い込みをもたらすだけではないか? 
といった気持ちがあります。 
流行しているから、耳にして、それで好きになって 
アマリア・ロドリゲスを好きになったという図式は 
どこかヤバイと感じます。 
「暗いはしけ」のほかに、どんなアマリアの歌が好きでしょうか? 
安易な場所にとどまらず、もっともっと知っていただければ 
と願うのです。  

暗いはしけ は野暮でしょう。あのリズムといい。 
難船 や わたしの苦いレモン には透明感があります。 
透明な慟哭(どうこく)と言っていいような。 
だからこそ慟哭にも積極的な意味が生まれる可能性をはらみます。
同じ慟哭でも、暗くて重くて湿っているのがピタリとくるのは 
ごく限定的な時でしょう。